今日から繋げる古代風景

日々の出来事を無理やり歴史に紐付ける人

【Violated Princess】のMOD超初心者覚え書き

(今回も歴史関係ないよ)

 

 

 

ゲーム版初音ミクとでも言おうか。

先日も記事にした、掲示板のねらーたちによる合同開発ゲーム(通称VH)から派生した、【Violated Princess】のMOD開発が作者によって推奨されるようになった。

名も知らぬネット民たちが己の性癖を詰め込み、ヒロインをより可愛くみせるゲームとなるよう情熱をMODにつぎ込む様子は、ネットのノリでありとても楽しい。R18が主題なので紹介する場に困る以外は。

 

作品販売サイトURL(DLsite)

【10%OFF】Violated Princess [思い出し笑い] | DLsite 同人 - R18

 

作者がMODを推奨しているのだから、せっかくだしこのゲームに対するMODの方法について軽く説明してみる。初心者向けの解説は配布されているけど、ここでは更にRPGツクールを今作で初めて使ってみたい人に向けて、VPのMODを用いた説明をしてみる。

本家を含み作り方講座などはあるため、ここではPPGツクールのMOD導入法と、そういった講座を理解するための、更にもう一つ初心者向けにツクールの基本的な仕組みを紹介したい。

 

MOD作成で用意するもの

大きく3つ

・RPGメーカーMV

 ゲームの編集に必要。昔の製品名はRPGツクールMVだけど、中身一緒。有料なのは仕方ないが、現在はsteam版が90%オフで買えるので一番お得。

 よくある質問にあったけど、VP本体に入っているのは「RPGメーカーMVで作成したゲームを遊ぶための読み取りソフト」なので、これだけでは編集できないから購入が必要。

 

・Violated princess本体

なるべく最新パッチ適応済みであると望ましい。

パッチがなにかわからなければ再DL.セーブデータはフォルダのsaveを新データのsaveにコピーすれば引継ぎできる。

 

イベント製作解説.zipと直前セーブzip(以下サイトに載ってる)

Violated Princess 230928 追加イベント その7 - 思い出し笑い - Ci-en(シエン) (dlsite.com)

 ゲーム本編とは関係ない、解説講座をするためのフィールドを導入するためのzip。用意されたセーブからでないと通常は辿り着けないので、ゲーム本編がバグる心配はない。けど不安ならゲーム本編を先に複製し、壊れても大丈夫なようにしとくと良い。

 

zipをDLして、右クリックで「すべてを展開」。出てきた「WWW」とあるフォルダをVP本編のフォルダ内(本編の中にも「WWW」があるけど、そのまま)ドロップすると、イベント解説.zipの内容がゲームに導入される。セーブの方も動揺。

 

 この段階でゲームを開始し、追加されたセーブを見ると、草原っぽい正方形のマップが登場する。しなかったら、入れる場所とか違うかもしれないので、やり方を変える。

 

導入の手順

上で少し導入にも触れてしまったが、ここからしっかり説明する。

 

まずはRPGツクールMVを起動する。

右上の「ファイル」から「プロジェクトを開く」を選択し、VH内の「Game.rpgproject」を開く。エクスプローラーから直接game.rpgperojectをドラッグして、MVに持ってくとコピーできるのでそれでもいいかも。

 

この状態で左下に注目。

「Violated princess ver~」の横にマイナスマークがあるので、クリックし、「実験他」をクリックする。すると下画面のようになる。ここまでくれば、導入は殆ど成功だ。

 

基本操作

まずは上野のアイコンの内、赤いピンが立っているアイコン(上画像で選択しているもの)を選択しよう。

その状態で、何もないところをダブルクリックすると、よくわからないが何も書かれていない「イベントエディター」というものが出る。次にキャラクターをダブルクリックすると、なんだかコマンドが組まれた状態のイベントエディターが見れる。

 

MOD作成では、基本的にこのエディターを弄り、横の実行内容を増やしていくことで、ゲームとしてのイベントを作り出していくことになる。

 

この時点で右上の▷アイコンをクリックすると、ゲームのテストプレイができる。

 

初心者はここで、ゲームで先ほど導入したセーブを開き、実験マップを出そう。このマップでNPCに話しかけつつ、MV内でも同じNPCをクリックしてエディターを出し、2つを比較することで勉強することができる。(今はまだやらなくて良い)

また「実験地他」の下にある製作用テンプレマップを開くと、テンプレがある。ここに書かれたものも、後々使うことを覚えておく。

 

キャラをマップに出して、話そう

このゲームはRPGなので、NPCに話しかける→会話

という流れさえできさえすればゲームとして最低限成立する。

そして細かな方法などは後々学ぶとしても、既に用意されたテンプレをコピペし、少しだけ調整することで新たなイベントを作ることが出来る。

 

まずはその基本練習をしよう。

マップをダブルクリックして、エディターを出す。

次に「画像」とある部分をダブルクリックすると、いっぱいキャラの絵が出てくる。

とりあえず話しかけたいキャラを選んで、OKを押そう。すると、こんな感じになる。

(もし待機時にも足踏みする動作が欲しいなら、オプションの足踏みアニメを選ぶ)

 

次に「実行内容」欄をダブルクリック。「イベントコマンド」というタブが出るので、コモンイベント…をクリック。「0001」とあるのを「0002会話開始」にしよう。

 

 

この段階でOKをおせば、表示はこうなる。

次にもう一度実行内容を、ダブルクリックし、今度は「文章の表示」を押す。

すると文章入力の欄が出るので、4行以内で何か打ってみよう。横の細い縦線が、表示される枠の目安なので、それ以内になるよう抑えよう。

最後に、もう一度、実行内容をダブルクリック→コモンイベント…を選び、「0007会話終了」を選ぶ。

そして下画像の並びになっているのを確認したら、右下の適応をクリックし、OKを押す。並びが違ったら、右クリックで「消去」や「切り取り」「コピー」などができるから調整しよう。

 

これがコマンド入力の基本的な流れである。

実際の作業としては既に出来上がったテンプレなどからコピペすれば、もっと簡単に色々できる。けどそれは実験他のNPCや、本編の街中のマップを見て参考にして欲しい。

 

テストプレイの注意

ここまでやったのだから、実際どう挙動するのかゲームで見てたい。そのためテストプレイをするのだが、ここで注意点がある。

 

VP作者のいうように、このRPGメーカーMVはセーブをする際とても落ちやすい。そのため、セーブが必要な時には二重にMVを立ち上げる必要がある。

 

下に出ているタスクバーからMVのアイコンを右クリックし「RPGツクールMV」をクリックすることで、MVを2つ立ち上げることができる。

 

今まで弄っていたMVから、作ったキャラを右クリックし、「コピー」しよう。そのまま新しいMVのほうに「貼り付け」して、新しいほうのMVで保存を押す。これにより折角作ったデータが消えるのを防ぐことができる。

(逆にそんな簡単に落ちるの? と思う方は、適当にコマンドを打った後に試してみると良い。かなり落ちる)

 

 

テストプレイで話しかけると、こんな感じで会話できる。ここまできたらチュートリアルは一つ終了だ。

このままだと地の分なので、会話をするには、文章の末尾に、発言者を表す「\n<人物名>」を入れると良い。これを繰り返し、最後に「0007会話の終了」で〆ることで、立ち絵は一切変化しないものの、会話劇は成立することとなる。

逆にポーズや表情も変化させたければ、間にコモンイベントの21~(立ち絵のポーズ)や51~の表情で好きなものを選ぶと良い。

 

終わり

とても基本的な動作はこれくらい。

あとは、欲しいシチュエーションのテンプレを「製作用テンプレマップ」の実行内容からコピペしたり、似たイベントのNPCを選んで、イベントをコピペしたり、すればいい。しかしそのままではおかしくなったり、自分のしたいことと異なる場合が殆どだ。

 

そういう場合や、逆に初めからこれよりちゃんと知識を深めたいのならば、MVの公式サイトのガイドを見たり、実験他にあるNPCに話しかけたりして、少しずつ学んでいくのがいい。

 

あふれ出る情熱があれば、苦はすくない。分からなければ作者の支援頁のコメントなどを覗けば解決法があったりなかったりするかもしれない。

 

君の性癖を解き放てるのは、君だけだ。その役に少しでもたてたなら幸いである。

 

 

AZNANAをコンテクストに沿ってプレイした感想、考察

 

 

 

カラメルカラムのスマホゲーム「AZNANA」をプレイした。

 

公式サイト

http://caracolu.com/app/aznana/

 

異形頭が暮らす、壁に覆われた街が舞台。

しゃべることのできない少年は、ゴミ山でおしゃべりな生首アズナナと出会う。

少年には自分の居場所がんかう、アズナナには自分の身体と記憶がなかった。

少年はアズナナと一緒にお金を稼ぎ、この街を出ることを目指すーー。

(公式サイトより引用)

 

 

毎度シナリオに定評のあるこのゲーム会社は、今作も小説の世界をさまようような、不思議な世界と、個性のあるキャラ、その背景で丁寧に練られた設定や伏線の上で織り成す切なさと優しさの詰まった物語は、涙腺を刺激してくれた。

 

放置ゲーの一種ではあるから、クリアまでゆっくり時間をかけてちょこちょこプレイしたのも、長い間この街に住んだような感覚となって、涙腺を破壊してくれる要因ともなった。こんなゲームに金を払わないのも失礼だと、一杯お布施も投げました。

 

さて、このゲームは一冊の絵本のようにエンディングまでしっかり作られたゲームなので、小説作品のように色んな考察がしやすい。

 

折角なので、この作品の背景を一つずつ、ロシアフォルマリズムっぽく紐解いていきたい。つまりゲーム内の物事を

 

「このシステムは、ゲームに落とす都合中仕方なくこうなった」

「この演出はメタ的にこうだよね」

 

とかではなく、

 

「作中においてそれらがどう演出されているかを見て、あくまで作中内の設定のみを根拠に意味を考えよう」

 

というやり方だ。

 

なおまずは、プレイ途中で知りえた情報を元に書いてく。(最後までプレイすると、全然違うよとなる情報とかもあるかも)

 

 

 

ネタバレはなるべく避けるけど、無料なのでまだ未プレイの方は一旦DLするのを推奨する。気に入ったら300円くらいの広告削除を入れると下バナーや30秒広告と永遠におさらばできるので、世界観に没入できて感動が更に高まるよ。

 

マップから考えるかつての街構造

 

 

 

この街はHPを見れば分かる通り、古めかしくゴミで溢れた場所だ。そこに異形頭(オブジェクトヘッド、O/H)と呼ばれる存在が店を営んでおり、少年たちは店で買い物をし、自転車で他の店でその商品を高値で売ることでお金を手にする。他にも空き缶拾いや空から降り注ぐゴミ集めまくることで稼いだㇼもできるけど、基本的に卸売り業的なことをしているのが正しい。

 

全貌

街の形は円環、中央の発電所を囲むようにドーナツ状で描かれており、店は数件、ぐるっと一周するように描かれている。(画像は公式サイトより)

 見ての通り店から店へは自転車をこいでも最短で15分以上はかかる。どう考えても暮らすには不便なので、逆に昔は

 

・より多くの店がより近い間隔で存在していたので、離れていても気にならなかった。

 

・ゴミ山や整備されずに通行できない道がないため、もっと短時間で行き来できた。ドーナツ状のマップであり密集したビル群が中央に生えているので、例えば街づくりの基本として、中央から放射線状に道が存在するのではと考えられる。

 

・自転車でなく自動車や路面電車がメインだった。

今は荒れた道、利用者減少、少年が運転できないなどの理由で使われない

 

などの理由が考えられる。背景を見る限り工場も多いから、集団移動としてバスか電車は絶対に存在していたのではと考えた。それを利用せず延々と自転車をこぎ続けられる少年の脚が末恐ろしい。ちゃんと休んでね。

 

カフェ~本屋、音楽屋

街の外への入り口付近には、まずカフェ(SALONO)が存在する。駅カフェのように、到着した人々はまずここで疲れを癒したり情報を集めたりしたのだろうか。

次いで、中央には本屋(LIBRO)や音楽屋(MUZIKO)といった娯楽場所が立つ。この街には、O/Hから「1つの業種につき1つの店舗しかない」と説明される。この本やと音楽者というサブカルの発展場は、マップ的には街の中央ではなく端にあるので、人が使うには不便だ。ということは、

・街の中央には他の娯楽施設(劇場など)が存在したか

・街の労働者全員が務める単一の巨大工場があったか

・O/Hでなく人間の運営する店舗が街の中央にあったか。

 

となる。一番最後の場合、人間とO/Hの間で格差が生まれている気もする。街の隅にあるO/Hの店ということで、街の発展や衰退に巻き込まれることなく運営できるというメリットもありはしそうだ。

 

自転車屋

・更に奥へ進むと、あるのが自転車屋。普通乗り物屋は街の入り口でレンタルサイクリングなどを行っているけど、あえて最奥にある理由は何なのだろうか。更に横にはゴミ捨て場、街を見て回る旅行者のことを考えると、サイクリングの開始地点としてはよろしくない。となると、

 

・この街は観光業に力を入れていない

・自動車社会のため自転車は不要

 

あるいは視点を変えて

 

・元々東の方にも入口があった

 

といった推測が浮かび上がる。

 

ゴミ捨て場

 街の入り口から遠い場所にゴミ捨て場がある。ゴミは普通処理した後に埋め立て地などに持っていくものであり、周囲を壁で囲まれた町の中で留めてしまえば、街はいずれゴミで溢れかえることになる(実際、少年たちの走る街の風景はそうなっている)

 

 となれば、あえて街のシンボルとなる入口からは遠く置いたとしても、最奥にゴミを溜め続けるメリットはあるのだろうか。そこで先ほどあげた

 

・元々東の方にも入口があった

  

という仮説を考える。

街のゴミは東から運ばれていたが、ゴミの量が増えたために一時的に山として貯蓄するようになった。しかしその後、東側の門が閉鎖されたため、輸送そのまま放棄されたという考えも取れる。あるいは、

 

・東門がないせいで、街の東側で出たゴミの処理が解決しづらく、結果的に不法なゴミ捨て場となった

 

などとも考えられる。

 

オブジェクトヘッドたちと売買

 

 基本的に少年たちはO/Hたちと物を売買することで金を稼いでいく。彼らは無尽蔵にお金を所持しているらしく、花屋の娘O/Hという一見幼い少女ですら商品によっては高額を即決で出す。

 これはこの街の物価がジンバブエドルとはいわずともインフレして高くみえているとも考えられるが、逆にO/Hはこの店から移動しないために、出費が殆どないとも言える。

 

 人間であれば欲しい商品のために、自ら移動して見せに行き商品を買う。しかしO/Hは、移動をしないし商品も、値段をつけるのは彼ら自身だが、少年の提示したものなら何であれ買い取る。つまり受動的な商売、受動的な消費が、O/Hの性質であると言える。

 彼らは積極的に儲ける必要がないから、街の隅で商売を行っているし、人を呼び込まないのだ。

 

 しかし、その中で変化を遂げるO/Hが現れる。

 

 

(ここから中盤ネタバレ)

 

O/Hたち

 

彼らは、自分と家族に関する問題を胸にかかえながら日々を送っている。

花屋は母親、本屋は父親、音楽屋は兄、何でも屋は兄弟のように過ごした元主。

自転車屋と少年は父子、アズナナにも姉妹のような存在がいる。例外に見えるカフェ屋も、終盤にてある対象たちに対しての想いを語る。

それらに焦点を当てて変化の過程を読み解いていきたい。

花屋

ゴミ山の横にたたずむ花屋という、美醜の並びたつ場所。この場所で花屋の娘は、母親を安心させたいと考える。そこでアズナナが言ったのが

 

「店の売上を伸ばす」

 

という方法だ。この提案は、人間であれば当たり前だが、受動的なO/Hにとっては想定外の判断であろう。と、同時に彼女はその提案を受け入れ、積極性を示すべく新商品を売り出す。

最初に売られた「一輪のバラ」「小さなサボテン」は、手のかからず、飾るにも困らない商品だ。しかし追加されていく商品は「サクラの小枝」を経て、「花束モドキ」「フラワーボックス」とより鮮やかかつ、購入したO/Hが「飾るには工夫が必要」というように購入者側への工夫を強いるものとなる。大多数の客層にウケるシンプルさから、購入者を選ぶ品物を出すようになったのは、O/Hの中に積極性が芽吹き成長し始めた証拠でもあるだろう。

 

花屋の娘の場合、新商品は全て店の中から出ない母に教わっていると娘は言う。その母がこの商品を順番に教えていると考えると、当たり障りのない商品しか教えずに可愛がっていたのは、言い換えるとクセのある商品を出して売れ残る辛さや購入者からの不満をあえて避けさせていたともとれる。

しかし後期に「おまかせアレジメント」などの商品も教える事で、そこに店を仕切る販売者としての自覚や責任を持たせてくことにも繋がるのではないか。

 

また、娘の言葉伝いに母親は娘が稼いだ売り上げを見て喜んでいたとある。それが喜んだふりである可能性もあるが、同時に売り上げを増すということは、娘が積極性を獲得したことの証でもあり、それを喜んだともいえるのではないか。

 

O/Hは受動性を特徴とするが、母自身も娘の売り上げに関わらず技を伝授し、例え客が来なくともすべてを伝えきればそれでO/Hの店を引き継ぐという役割は終了である。

 

しかし売上に応じて新商品を教えこむ母は、娘に積極性を望んでいたということであり、娘に従来の「花屋としてのO/H」以上の積極性を望んでいたとなる。

 

最後に花屋が追加される商品は、(私の場合ある画家の一生を勝手に母親に重ねてしまうが)、購入者のコメントによりこれだけが異質であると分かる。ここでなぜこの商品だけかの理由を考えると、母親が従来花屋のO/Hとして伝授するようプログラムされていない、母親として娘に伝えたかったものなのかもしれない。店から動けない受動的な中に、どれだけ積極性を見出せるか、それが花屋だけでなく他の店のO/Hの命題ともなっていく。

 

音楽屋

冷笑と苦悩、そして中二病を混ぜ込んだようなオルゴール頭の彼は、自ら音楽を生み出すことをひどく恐れている。過去に囚われた存在であろう。そんな彼が初期に売るのは「はじめてのクラシック」「やすっぽいバラード」とよくも悪くも定番な音楽屋の品ぞろえ。その次に無音の「273秒」を突っ込む奇抜さは、己のセンスに卑屈なれど突飛であることは間違いない。

 

 この音楽屋、自らの卑屈さゆえに最低限の音楽しか売らないという点では、受動的なO/Hである。

 

 彼の苦悩は、自らが音楽を作ることと、兄への劣等感および後悔である。兄の凄さを語りながら、終盤まで兄がなぜこの場にはいないのかを語らない。読み手は何となく、廃れた街なので兄もまた壊れてしまったのだとまずは推測する。だが終盤に語る兄の行方は、彼の劣等感の理由に強く関わっている。

 

「273秒」は、元ネタの4分33秒と同じく、何も音がない中で流れる生活音や周囲の音を気づかせる曲である。退屈な日々の中で、彼の中に同じではない何かに気づきを与えられたことを暗示する。

 

途中、彼は「サイレントナイト」「ハッピーバースデー2U」という季節に関わる祝いの曲を挟む。時間の流れを意識させる曲は、彼の中で止まっていたものを動き出していることを示しているようにみえる。

 

次いで「地獄のヘヴィメタル」「クソッたれなオルタナは今までドクロなどを欲しがり、コーヒーを飲む兄に憧れるような、中二病を匂わせていた彼と同調し、彼を激しい想いが揺れ動く10代の思春期を足掻く青年へと変化させる。

 

途中で割れた鏡を見ることで、己自身を見つめなおすのは、子供が自己のアイデンティーを得る心理発達をなぞっているのだろう。

 

彼の中で、兄によって生み出された創作に対する劣等感は大きかった。だからこそ彼にとっての積極性とは、自分が新たな音楽を生み出しても良いという、挫折からの立ち直りだったのだ

 

このように、O/Hたちのサブストーリーを通じて、受動性からの積極性への転換するシナリオは繰り返され、やがて少年たちにもその展開はぶつかることとなる。

 

カフェ屋

彼は老いた男性のような言動と、実際に身体が軋むという老いを感じさせる設定がなされている。

ストーリーを進めると、少年たちに人間たちが来ていたころの話を懐かしそうに話し始める。更に終盤では、自身の夢を語り始める。

 

彼には直接の家族関係となる存在が作中には登場しない。

 

それは詳細を省くが、街に残っているO/Hたちそのものを家族として捉えているからでもある。

途中、彼は何でも屋が来たときに、新たな人間が共にいなかったかを尋ねる。彼にとって憂鬱の対象であったのは、店に誰も来ないという寂しさである。他のスタッフと共に長く働いてきたと語るのも、寂しさの強調だろう。

街ができた当初から入口の横に存在した彼は、街の栄枯盛衰を一番に理解している。そして店に新たな人間が来ないことも。

 

序盤に彼から買える商品は「スタンダードコーヒー」「タマゴサンド」「ホイップラテ」「クロワッサン」。まるで本当に駅カフェ(スタバなど)のように、ライトな食事である。

しかしここから、花屋の好む「チーズケーキ」、音楽屋のオーダーに応じた「プレミアムコーヒー」、本屋の好物である「カレーライス」と、丁度元々街にいる他3人の求める商品を出すようになる。

 

彼はコーヒーの開発のために、少年たちに試作品を渡す。それは一見すると様々な層の評価を知ろうとしているようだが、一方で彼の飲んで欲しい相手は常に、少年たちが出会って来たO/Hの特徴と合致する。

 

つまり彼が積極的に望んでいるのは、この街にいるO/Hたちに関わろうということである。

 

話を聞くと、彼には本屋の前の主人や、音楽屋の兄と交流があった話をする。O/Hは基本的に店から動けないというルールが何度も提示されている以上、実際に足を運んだわけではないだろう。だが、言葉伝いに常連客が停止していく。残されたO/Hの事情を少年たちに何度も確認するも、店から動けない以上積極的には関われない。そして自分にも老いが近づき、できることは限られている。

 

少年とアズナナ

受動性と積極性という点で話をみていくと、話せないが体のある少年と、よく話すが体のないアズナナは、その印象に対して逆の展開を向かえる。アズナナが記憶を一旦取り戻したが、その後ショートを起こして記憶喪失となるのである。

 

ここでショックを受けるのはO/Hたちだけでなく読み手もだろう。少年は初めて、真っ直ぐ進んでいた道で挫折を覚える。

 

同時に、ここでプレイヤーは街を出るか、残るかという2択を突き付けられる。ここで改めて、今自分がどちらに傾いているかを問いただされると同時に、積極性が良い方向に向くとは分からないということも示される。

 

だがこれは唐突な2択はない。

 

ストーリーを進めるごとに弱る花屋の母やカフェ屋、積極性を見せたことで後悔を生んだ音楽屋と、何度も反芻されたテーマである。

 

だからこそ読み手はこのとき始めて、シナリオの分岐、つまりどちらかを選ばなくてはならないという積極性を見せなければならない。

 

その結果がどうなるのかは、ここでは省略する。

だが最終的に、どんな結末となろうとも受動的から積極的な行動をする決意を、O/Hたちが示している。

 

 

本屋

この世界を、物語というメタ視点でみる、大人の女性らしきO/H。商品はなぞなぞ本の「リドル100」、ハチ公パロの「ロボ公物語」、童話の「人形じいさん」「アズの魔法使い」と、まずは子供向けの本から始まっていく。

その後、名曲集「みんなのおんがく」、ディストピア本「すばらしいせかい」など子供が読むには内容が複雑な本を取り扱うようになっていく。

 

こ子に登場する老若男女のO/Hがそれぞれ人間の人生の一部を切り取っているとすれば、彼女は大人となり過去を客観視できるようになった存在でもある。

かつて父親とのいさかいも、今では客観視できるほどに。

 

彼女は他のO/Hと比べて成長を感じさせず、少年たちに対して母親のようなポジションで見守り、彼らの行く末を見守っている。そして少年はその影響を受けてか、自ら本を書くようになる。その本を自らの書店で売りたいと言う本屋は、やはり他者の成長を眺める側に回る存在であるのだろう。

 

何でも屋

執筆中……

 

自転車屋

分かりやすいテンプレな、少年を育てあげながら暴力的な父親ポジションとして登場する。悪そうな印象を与えながらも、しかし少年が常に乗っている自転車は彼が与えたものであり、ゲーム中に何十時間こぎ続けようと破損がないのは、自転車屋の整備が行き届いているからだろう。

彼のみ序盤以降、金をもっと持ってこいという自転車から慌てて立ち去って後、店によることはない。父殺し(親殺し)の文学などというように、少年はここで彼とのかかわりを一切取らなくなる。

 

中盤、月日が経った後に、少年の姿をみたO/Hたちが「大人びた」という趣旨の話をする。読み手はもしかして彼は人間なのかという想像をするが、それをハッキリと知るのは彼を育て上げた自転車屋のみである。登場はしないし、誰も彼のことを触れないが、少年の自転車が常にその影響を示し続けている。

 

ゴミ山

スカベンジで何度も訪れ、不思議なものをいっぱい発掘できる場所である。

何でも屋がこの街に来たのも、中盤でもしかすると耳のあるロボットを探しに来たからかと察したりもする。

一番安いのが「きれいな歯車」、これだけ綺麗と書かれているのに一番安いのも面白い。他には、恐らく元ネタがあるんだろうなというゴミが沢山見つかる。

この作品において、ゴミ山は本当のゴミではない。売れる商品の見つかる出会いの場、依頼を受けて発掘する可能性の場所である。なによりアズナナという生首から声援を送られる光景は、ゴミ山を前にシュールである。

少年がゴミに慣れているのもあるが、現実では避けられるゴミ山を、このゲーム内でプレイヤ—は積極的に寄ることになるというアイロニーも含んでいる。

彼らがゴミを汚らしいものと扱わないお陰で、ゴミ山が探索のワクワクを示す場となり、このゲームの雰囲気を明るいものへと変えている。それがこの作品の根っこに繋がるのだろう。

 

広告を文脈に含めると

序盤、私は広告をつけながらゲームをプレイしていた。このゲームではおもに

 

・フィーバータイムの効果3倍

・移動時間の短縮

・再度のスカベンジ

 

で30秒広告を見るか選ばされる。逆に300円払えば見なくて済む。ゲームをクリアしようとするほど、広告を見る回数が増えるのは一見デメリットだが、この仕組み自体も文脈と捉えると面白いかもしれない。

 

舞台は寂れゴミの溢れた街で、フィーバーでさえ手に入るのは最新の何かでなく捨てられたゴミである。それを換金しているという体で金へと変わるが、つまりこの場所は社会の最下層と言っても良い。しかし、そんな最下層のゴミ山にも広告は入り込む。そして広告は金を生む。広告映像を眺める間、読み手は30秒間、何もできぬために受動的となる。そしてプレイをするほどに、受動的な時間は増えていく。

 

ここでは積極性、つまり金を払えばこの呪縛から解放されるという選択が提示されている。別に課金を誰も強制しないため、最後まで何もしない人も大勢いるだろう。前述で、読み手は街を出るか、残るかの分岐により積極性を強いられると話したが、ここでも実は選択肢が与えられている。金を効率的に稼ぐために現実の金を払うか、無課金の非効率さを抱えたまま、ゲーム内で金を稼ぐ効率を求めるというメタ的要素でも見れる。

 

終わりに

ゲームのストーリーなんかは誰かが分かりやすくまとめてるかもしれないけど、この話にどう解釈するかは一人一人違うので、私のような解釈をしても良いし、そんなの妄想はデタラメだと言ってくれても良い。

 

昨今の膨大なシナリオが追加され続けるアプリゲーをプレイする中で、日々プレイしながら、終わりへ向かっている怖さ、新しい場所へ進む勇気を実感させるこのゲームは、アプリゲームをプレイするということについて改めて考えさせられた。

同会社のアプリゲーム「ALTER EGO」のシナリオクオリティと、少ない台詞ばかりなのに魅力的なキャラの多い「ムシカゴ オルタナティブマーチ」の両方の良さが十分に生きているので、この2作が好きならおススメである。逆もまたしかり。

 

あとALTER EGOとの連動もあるんですね。こうやって新しいエスとの話が聴けるの嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイドルは盆踊りで鎮められるか〜神楽を舞う者が神となる〜

(注:この記事は推敲とかない怪文書なので、妥当性とかはないです)

 

 

盆踊りのニュース

2023年夏、神田神社のアニソン盆踊りがコロナ渦から復活し、盆踊りでYOASOBIの「アイドル」が踊られた。(リンクは動画)。

神田明神推しの子ともコラボしているし、アキバと神田神社サブカルで結びつくのは面白い。

一方でアイドル漫画とジャニーズ改革を絡めて論じられるように、アイドルの不祥事は芸能を揺るがし、万のファンを不幸に叩き落とす。アイドルって怖いなあと考えさせられるここ最近である。

 

「アイドル」で踊る意味

同時に日本の芸能史について考え直すと、これは不思議な感覚もある。

大抵の本などには、折口信夫などの著作を通じて、芸能とはまず神事や農耕の成功を願う儀式であったと書いてある。盆踊りもまた(実際には念仏踊りからの変遷もあるが)、大正時代に全国の農村で普及すると、先祖や精霊を鎮めるための踊りなどと言うようになった。これは神社が主催なこともあり、神へ捧げる宗教行事という認識は確かにある。

 

一方でアイドルという曲は、アイドルという夢を見せるために現実で苦悩する職業、またはアイドルを過剰に神聖視する思想を皮肉っている。(動画) アイドルは「偶像」、イコンなどと語源的に結びつく。今回はこの2つ、つまり

・神へ奉る踊り

偶像崇拝の皮肉

の両方が混ざる盆踊りでもあった。そんなこと考えるより、普通に踊ったほうが楽しいだろうけど。

 

というわけで、アイドルを宗教と考えた場合、この宗教はメディアと共にどう発展したかを考える。でも考え出すとキリがないので、とりあえず一つの取っ掛かりとして、ファンの人数から考えてみる。

 

話が上手くまとまらないというか、半ばツラツラと自論書いてるだけなので、とても読みにくいです。

 

 

芸能人のファン人数

TVの中で4人組バンドが日々歌を歌い、全国の視聴者を釘付けにする。

10人前後のダンスグループに、48人のアイドルグループもいる。

その中でより多くのファンを持ち、曲がヒットし、大劇場で歌ったりドラマの主役を持てるものがアイドルの成長として理解される。つまりアイドルは競争者なのだ。そして輝けるアイドルもいれば、その下には不遇な存在もピラミッド形式で大量にいる、と言う認識もある。

 

だが、信者(ファン)の数で見た場合、本当にアイドルは多くのファンを獲得すべきなのだろうか。

 

例えば、100人いるアイドルグループが1時間音楽番組に出演したとしよう。多い、とは思う。
だが視聴数100万人の人数に対して、100人で割った場合はどうだろうか。1人あたり1万人の視聴者を担当し、魅了しているとなると、大道芸人などと比べ、直感として多すぎではないかも……? と思う。
逆にスタッフ含め10人で作ったシンガーソングライターの番組が100万再生いった場合、人単位では1人10万人を相手にしてるわけで、殊更すごい。

 

ソシャゲでは100人以上のキャラが登場するのも当たり前だが、初心者はキャラの名前を覚えきれない。歴史の人物も然り。同じ感覚で、アイドルが多すぎて区別つかない人も少なくないだろう。しかしそのキャラ1人が稼ぐ収入は一般人のより高く、歴史の人物に業績もまた人より際立っている。

 

何が言いたいかというと、アイドルそれ自体の信望者は、過去と比べて大量に獲得されているのが現代ということだ。

 

人数から分類するアイドルの種類

かつて歌や踊りの上手い旅芸人や琵琶法師は、この世界に多くいた。だが、彼らが相手取るのは一度に精々数十人、多くても数千人を超えることはなかった。それは人口だったり、声を遠くまで届ける装置や踊りを見せる劇場が少なかったこともある。
またこの中で発展した芸能はいつしか高尚さを獲得し、能に代表されるように、大名など一部の人間に披露するものが生まれたということもある。

それが歌舞伎などの大衆娯楽が出来上がることで敷居を下げたりもする一方、大衆を対象とした芸人自体は全国に存在し、その場にいる100人を魅了していた。

 

これと同じことが、アイドルにも起こっている。

メディアで活躍するアイドルと、メディア以外で活躍するアイドルだ。後者はWikipediaでライブアイドルという項目となり、別名として、地下アイドルインディーズアイドルプレアイドルリアル系アイドルなどが挙げられている。多くの人はライブアイドルがメディアアイドルに成り上がるものと思っているし、逆にプライドがあるから人気があってもライブアイドルに残っているグループもあると解釈する。

 

(でも1990年代のアイドルブームによってアイドル過多が起きた結果、メディアから溢れたによってできたのがライブアイドルだという説明もされている。けれど芸能自体は自然発生するものとして今回はあえてメディアアイドル→ライブアイドルという順序の話を避ける)

 

この流れを、宗教と重ねて論じられることもある。つまり身近にいた指導者が信者を増やすことで気づけば遥か高み、手の届かぬ存在となった……などは、例を挙げずともよくある理屈だ。

 

一方でライブアイドルと、近代以前の旅芸人では何が違うだろうか。

 

近代の宗教、旅芸人との違い

ライブアイドルと近世までの旅芸人の違いは

・メディアの発展による遠隔性の獲得、土着性の喪失

・メディアアイドルと比較され続けること

 

古代であれば、一つの巨大な日本神話体系ないし土着の宗教によりそうことで、成立していた。よって、他所の祭りが賑わおうと、地元の小規模な祭りは、それはそれとして存在し続け、神は祀られ続けたのである。

 

一方でアイドルは、例えインターネットアイドルであろうと、ランキングや売上の数字からの比較が逃れられない。アイドルの登場する場所に、何かと比較する商売的な数字が存在しないことはない。

(土着性の獲得を利用するローカルアイドルも勿論存在する。が、やはり全国的なファンの獲得を目的に組み込んでいる)

 

 

「君だけのアイドル」と言いながら、君だけでは成り立たないのが現代アイドルなのである。

 

そんな中、メディアを捨て、武道館を捨てたライブアイドルがいれば、そのアイドル性は中世の旅芸人、更には限定された神事へ回帰し、芸能の限定となる限られた場で行う舞や歌となるのだろう。だがそれでも、神楽には戻らない。アイドルが歌を捧げるのは己自身とファンである。神に捧げるのではなく、己の神格化のためにアイドルは笑顔を振り撒くのである。

 

対して盆踊りは、神を鎮めるためにファンが踊る儀式。盛り上げながら、同時に踊りを捧げて悪霊とならぬよう鎮めるのである。

 

終わり

結局、アイドルは盆踊りで鎮められるのかと言ったら、分からない。

けれど例えばある作品がプロジェクト終了後も周年イベントをするのは、昔から好きだったファンの心を鎮めるためだし、神が鎮まるかより神を信じるファンの心を鎮めることが実際のところ大事だ。

 

なので、盆踊りをすることは良い試みだと思いました。(いい締め括り)

 

 

化石と神代から古代へ至るまで〜蒸気が竜を呼び起こす〜

 

 

古代と似た言葉に太古がある。

太古のロマンといえば恐竜。しかし現代、第四紀と恐竜の時代は隔絶した世界ではない。

最近でも中国で恐竜に哺乳類が噛み付く化石が見つかったり恐竜と鳥類の進化図を埋める羽毛恐竜が発見されている。

では我々は恐竜と出会うまで、化石とどう触れ合ってきたのだろうか。

 

古代ギリシアと化石

 

古代ギリシアの人間も、化石を過去の生物の骨だと気づいていた。紀元前7世紀のタレスやその弟子アナクシマンドロスも、山にある貝の化石からかつてそこが海だったと推測したりもした。

アリストテレスが化石を神秘の力で生まれたとする「造形力説」を出したことで、後のキリスト教世界に至るまで化石研究はこの説のままであった。

それは17世紀に入ってからもそうで、大学教授ヨハン・ベリンガーが同僚の悪戯による偽の化石(文字入りのものまで)を神の手によるのだから不思議はないと研究し、本として出版してしまった事件。同僚は途中から偽造だと説明したが中傷だとして受けれいれず、最終的に自分の名前の書かれた偽化石を発掘したことで本を破棄したという。

画像元、銀座新聞ニュース

 

あるいは化石を神話と絡めた人間もいた。記録に残っているものだと、博物学者ヨハン・ヤーコブ・ショイヒツァー(1672-1733)の話がある。医師、数学教授、物理学教授と遍歴した彼は旅行先で化石を収集し研究をしては、多くの旅行記や本を出した。その中で、見つけた化石をノアの大洪水により亡くなった人間のものと考え、ホモ・デルヴィイ(洪水の人)と名づけ、化石と神話と絡めて体系化した本『神聖自然学』を出した。この化石がオオサンショウウオの仲間だと判定されるのは1811年のことである。

 

産業革命と目覚め

迎えた19世紀、産業革命により大規模工事が行われるようになると、同時に多数の化石も発掘された。水爆からゴジラが目覚めたが、恐竜も蒸気機関により目覚めた。しかしそれはまだ微睡みの中。

 

化石夫人ことメアリー・アニングがイクチオサウルスの化石を発掘するニュースが話題となり、世界最初に恐竜を発見したとされるギデオン・マンテルも採掘場から化石を見つけ出す。彼は検討を重ねるため多くの学者に鑑定を依頼し、その歯の化石がなんの種かを特定しようとした。

後世では、これこそその復元図がおかしいことで茶化されるなイグアノドンだが、他の鑑定者が人や魚の歯、サイの歯だという中で、数多の生物を調査し爬虫類のイグアナに目をつけたその研究は、神秘の骨から、恐竜という爬虫類の存在に近づいたこととなる。現代でも復元CGが最新研究によって何度も修正されるのを考えてるので、彼自身が奇天烈な発想を持っていたわけではなく、むしろ科学的な方法ではある。

一応、当時の復元図も貼る。下の骨は木の枝と間違えてる。イグアノドンの指がツノだと間違っているのは有名。

 

とはいえ、そのまますぐに骨が爬虫類のものと認められたわけではない。後に「恐竜(dinosaur )」の名づけ親となる王立協会の学者リチャード・オーウェンもこれは哺乳類の歯だとして対立することになる。

そして爬虫類である証拠が集まり、改めて学名をつけるとき、最初「イグアナサウルス」とつけようとして、それは現在のイグアナの名前でもあるからと「イグアノドン」と名前がつけられた。人類が初めて学名をつけた恐竜の概念はうまれた。

 

化石が神の奇跡、または神代の証拠としての在り方から、実在する古代生物の世界へと繋がる橋のかかった瞬間である。

 

後書き

 

古代と古代史は違う。

古代史は「古代の人類の歴史」といった使われ方をする一方、古代は人類誕生以前の説明にも使われる。

このブログのタイトルは古代風景だから、第四紀以前の話もすることで、今日と古代をつなげるのは人類のみではないので、たまにはこんな感じのも書いてみたい。

 

 

ステータス画面が存在する異世界~ピタゴラスから相対主義~(思案中)

(注:この記事は資料収集中なので、あとで文献の引用や、大幅な改変があるかもしれません。)

 

彼らは、数学の原理が万物の原理だと考えた

アリストテレス形而上学、1-5,c. BC350~

 

 

サブカルにおけるステータスの現在

ゲームの途中、StartボタンやXキーを打つと開かれるメニュー画面。そこには自分のキャラのHP、戦闘力、装備からスキルまで確認できるステータス画面がある。

一方でRPGPvPだと、相手のプロフィールも一部閲覧できる。そこで戦力差を見極めて戦うか逃げるかを選んだり、パーティーを組んだり、botやチートの見極めも行う。

 

異世界モノ(なろう含む)では、そういうステータス画面がデフォルトに存在している。自分や相手の現在の状態を分かりやすく示してくれる便利な存在だし、極論「レベル100」と表示すれば、強者だと読者に納得させられる。数値化とはそれだけ強い。SNSのフォロワー数だって、言ってみればレベリングと似たようなものなので、もしレベルなんて概念が現実にあればあんな感じなんだろう。

 

さて、古代では強者の能力を紹介するのにステータス画面なんてものはなかった。だから形容語句で「兜輝く」ヘクトールと呼んだり、その直後に彼の武勇の逸話を並べたりする。百人力のヘクトールならまだしも、レベル100のヘクトールと呼ぶとゲームっぽくなるのは、戦力の数値化が近代科学以降の、そしてゲームから来る発想であるからに他ならない。

 

でも古代には、全てのものを数値化しようとする集団がいた。みんな大好きピタゴラス教団である。もし彼らがレベリング(レベルを上げる)の発想を閃いた場合、その熱意をもってステータス画面を魔法で生み出した世界があったかもしれない。

 

ピタゴラス教団がレベルという概念を生み出しそうな理由

ピタゴラスは尾ひれのついた伝説が増えすぎたせいで実態把握が不明な学者だ。彼の作り上げたピタゴラス教団が秘密主義だったせいで神秘的なイメージが広がったのもある。教団は政治結社でもあり、BC450年に壊滅したとされる。

 

ともあれ、現代でも「万物の根源は数である」(日本語表記ゆれ多々)と紹介される彼らこそ、古代でレベルという発想にいち早く気づきそうなものだ。

これが他の宗教だと「徳」を積むことでより良い人間になれるという点でレベルを閃くかもしれないが、そもそも徳が数値化に不向きなうえ、神を信仰した場合、「神の理解は数字で推し量れない」と拒絶され、ルネサンスにアラビアから数学が持ち込まれるまで無視されてしまいそう。

古代でレベルが流行るには、この宗教的な拒絶が入る前にステータス画面が存在しなくてはならず、それを生み出せるのはこの時代だとピタゴラス教団が筆頭なのではないか。

 

蛇足だけど、アポロドーロスの詩いはく、「ピタゴラスはある定理を発見したとき、立派な牡牛を神にささげた」(wiki)らしい。これがピタゴラスのレベル発見と強引に結び付けられる。牛を倒すことでレベリングしたと結びつけるのも創作では良さそう。

 

とかどうでも良い憶測はさておき、本題に入ろう。

古代世界に広めた場合、何が起こるかを想像しようと思う。

 

前提条件

・今回は戦闘力のレベルという概念に焦点を絞る。剣術レベル、魔法レベルなどの職業レベル、またこのレベルは「敵を倒すことによる経験値で上がる数値」と定義する。

・獲得する経験値量は、敵のレベルによって変動する。レベルが高いほど、経験値量も増える。

・称号などは考えない。例えば敵兵100人を斬ってレベルを上げたと偽り、実際は奴隷100人を殺したなどの場合、「奴隷100人斬り」などという称号を得るかもしれないため、ステータス画面で不利になるかもしれないが、そういうこと考えるときりがない。

 

1 数字の誇張

ギリシア文学を知っている方は、そこにかかれた戦争での兵士や船の数が大分盛られていることを知っているだろう。中国史の1万、10万単位で盛る兵士数もボリューミーだ。昔の段階で、数字は大きいほど良いし、盛りすぎなくらい盛る考えはあった。

そして当然レベルは、伝聞的な情報として、このレベルを偽ることが戦争での情報戦の一つとなる。敵軍のほうが平均して10レベル高いなどという情報は、ゲーマーならば撤退すべきと判断を下すだろう。逆に10レベル低いと言われれば、油断を誘うのも簡単だ。対面すれば実際のレベルが分かるものの、こうした情報戦に使われるのはたやすい。

 

2 王、貴族、儀式

 

おそらく王や貴族などは自らの名誉のために、さながら師に高名な学者や戦士を雇っては皆伝を授かるように、レベルを上げようとするはずだ。そこで先人に立って戦う軍人気質の者ならば、それを十二分に誇り、わざわざ兵士や民衆の前に現れてステータスを確認させることで人気を得るだろう。

一方で、あまり先陣に立たないタイプの貴族たちは、他で経験を積もうとする。そのため捕虜などを倒すことでレベルを上げたりするかもしれない。ともかくここで、人間が労働力や人質以外に、「経験値」という価値に生まれ変わる。よって、死を前にした病人や老人、貧者たちが身を差し出す代わりに家族へ報酬を得るという終末期ビジネスも発展するかもしれない。

 

これが宗教を通じて昇華された場合、自ら進んで誰かに経験値を差し出すことは神聖な儀式と扱われることになる。それまで神に生贄を捧げる儀式は多くあったが、恐らくその生贄のとどめを刺すのは神官の役目でなく、(経験値を実際に受け継ぐために)王や貴族の役目となるだろう。

原始的な宗教に回帰しようとする宗教家は、「経験値とは神の元に帰るべきである」という主張により、経験値を放棄する方法を模索しそうだ。よって極端に自害やうまく経験値を継承しない儀式を考え出して実行するだろうが、都市国家からすれば異端扱いされるだろう。

 

3 民衆

現代であれば、民衆はレベリングに関与しない。経験値を得るために、誰かを倒すことをしないからだ。むしろレベルが上がっているということは、何かを殺めたということで敵視されるか、一部の格闘家のみが自己アピールに使うのみだろう。

 

では例外はどうだろうか。

生物を殺すという意味では、ハンターや酪農家、実験で生物を取り扱う研究者などがレベルを上げやすそうだ。よって彼らの職業界隈ではレベルを比較し上下関係を図る文化が根ざすかもしれない。

 

また、治安の悪いところでは、レベルは分かりやすい強さの象徴となる。よって殺人などへの躊躇がなくなる、または正当化される文化の発展が見込まれる。

また戦時においてレベルが重要な地位を保つのは、想像に難くない。(こちらは深く考えるとキリがないし、なんならそういうゲームもあるので深堀りしない)

 

庶民による経験値の稼ぎ方

とはいえ、人はステータス画面で一生を終えるまでにレベル1から脱却したいと思うはずだ。また、成人と子供を区別するための指標などに使われるかもしれない。日本において、16歳が元服のステータスとなるように。

これがファンタジー世界なら村の外にいるスライムを狩るだろう。では現実だと、小動物を狩る方向に進む。そこで何体狩ればレベルが上がるのかの平均値が出され、一定レベルにあがるよう、仕組みが整えられる可能性がある。

 

4 学問への影響

まず、数字と言う概念がこのレベルによって幅広く知られることとなる。もしこの文字の言語が全世界で同一であれば、現在の英語並みに世界へ古代〇〇語が普及するだろう。これによる言語への影響も無視できない。

これにより、影響を受けるのは数学のほか、哲学や宗教で「なぜ人はレベルを上げるのか」「レベルとは何なのか」を議論する機会が増えるはずだ。道徳的にはレベルを誇ることなかれ、が一般的な解答となるかもしれない。しかし軍の階級や貴族の役職が名前だけであっても存在し続けたように、レベルもまた理由をつけて存在し続ける。その度に人々はレベルについて議論し続けることだろう。

またレベルの上がる職業が人気を博し、反対にレベルに無関係な職業が卑下される傾向も無視できない。これにより社会的なヒエラルキーが生まれ、社会や政治学の題材となるだろう。

 

アリストテレスの批判

アリストテレスは「形而上学」において、ピタゴラス教団を紹介しながら、その問題点についても書いている。 書くと長くなるので以下のNoteなどを参考として欲しいが、後の中世まで主流となるアリストテレスの考えだが、ステータス画面がある世界では数字主義の方が台頭する逆転が起きる。よって古代ギリシアから続く学問に大きな影響を与えていくだろう。

 

【哲学】ピュタゴラス派とプラトン ―アリストテレス史観を相対化する―|存在]

 

結局レベルとは何なのか

色々と考えたが、戦闘力のレベルは確かに、ある場所においては力を象徴となるものの、現代では平時において意味をなさない。戦闘力なんかよりSNSフォロワー数のほうが偉大だ。

しかし戦時では、大きな意味を持つ。つまり小国同士の戦争が続く時代、そして世界大戦などでは、権力や勝利のために利用される。個人単位でみても、兵士の人間観すら変える可能性を持つ。今回は古代視点だが、例えば近現代の場合、爆撃機によりレベルが急激に上がる兵士は、心が壊れるかもしれないし、逆に人気の職となるかもしれない。

 

また、レベルという数値化は、先にのべたように近代の科学主義など、すべてを数値化しようという働きがなくては生まれず、古代においてはその概念を先取りすることにより社会や文化に大きく関わるということが考えられる。

つまり中世風RPGではレベルが日常生活に浸透しているものの、基盤である中世の世界観自体がレベル表示ありでは存在しないという矛盾もあるため、細部を突き詰めると文化の破綻や矛盾が生じる。あるいはそのズレを修正するような文化や知恵が存在することとなる。

 

ともあれ、「レベルが高いからと言ってその人の言うことが正しいとは限らない」という注意はされそうだし、レベルが高くても評価されないことなど多いだろう。ただ一つの指標のみで人間性を図れるかについて、ソクラテスを始めとする古代ギリシアソフィストたちは模索した。これを絶対的な尺度を求める、絶対主義という。しかし彼は同時に、無知の知、つまり問い続け何も知らないことを自覚する、思考を取る。

 

汝自らを知れ

~デルフォイアポロン神殿の碑文~

 

という名言はソクラテスによると紹介されることもあるが、ステータス画面の表示についてもその正しさを問いかけ、そこには載らない情報までも考えなくてはならないと古代ギリシアの哲学者は考えるだろう。

そして同時代、最初に「ソフィスト」を名乗ったプロタゴスは、唯一の原理を否定した。

 

万物の尺度は人間である

 

彼の著作による言葉は、人間一人一人によって尺度は異なることを表している。そして後世では、相対主義として取られている。たとえ今日突然ステータス画面とレベルが見えた場合、まず第一歩としてそれが自分とどう関わるのか、例え古代世界でなくとも考えなくてはならない。

トリチウムから考える古代の毒液循環

 

簡潔な導入をすると、トリチウムが話題なので、もし古代になんかやばそうな水溶物質を飲み込んだ問題が提示されたらどうだったか考える。

 

なんの意味があるんだと言われれば、例えば古代にタイムスリップした際に、同じくタイムスリップしてきた現代人と敵対する羽目になり、情報戦を強いられた際に役立つかもしれない。

そんなことあり得ないと思えるなら、貴方のタイムスリップはさぞかし幸運なものに違いない。時空間の干渉により、何が起こるか分からないのが時間旅行というものだ。

 

 

 

前提知識

 もちろん、キュリー夫人放射能とか、ルネサンスでの医学発展とかがなければ放射能汚染だの生物濃縮という議論にはならない。じゃあ何を古代的な視点で考えるかというと、血液の捉え方である。

 

 西洋医学史では、ルネサンス期にアラビアからの知識、またハーヴィーなどが血液循環について研究し近代医学に至るまで、キリスト教的な背景から医療が学問として発達せず、2世紀ローマの学者ガレノスの理論を用い続けていた。

 ヒポクラテス派が人体の液体について提唱し、アリストテレス、ガレノスが纏めたのが、「四体液説」というやつ

画像引用: 四体液説 Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BD%93%E6%B6%B2%E8%AA%AC

 

 こんな画像を見せながら、「古代ギリシャだと、血液、粘液、黄色胆汁、黒胆汁の4液と熱・冷・湿・乾の4気体を元に人体を見ていた」の話をするのが大学でやる医学史1回目の授業である。外から取り込んだ液体が、体内で4つのどの液体になるかは気体の状態なり悪い液体だったかで決まる。ざっくり言えば、悪いものを取り込み体内で無毒化できないと黒胆汁となる。そういうときは嘔吐とか下痢、排尿などで体外に黒胆汁を出す。

 

考えられる治療法

 さて、貴方が情報戦に負けて、なんかやばい毒液を摂取してしまったとしよう。

 このとき、即時性の毒であれば口に指を突っ込み嘔吐するか、されるかだろう。ローマ皇帝のネロも、毒を盛られた際にアグリッピナにより毒を吐き出さそうとされた逸話から、毒はまず吐き出すことが有用とされるのはよく知られていたはずだ。

 アグリッピナ本人が毒を盛っており、吐き出さすふりをしてトドメ毒入り羽毛で口を塞いだ逸話でもあるけど。

 

 しかし、今回は元ネタに合わせて、即時性でなく遅延性の毒液だったとして深堀りしよう。先ほど書いた通り、ガレノスの四液体説によれば、悪い液が体内にある場合、基本的な治療法は、液を外に出す、これに尽きる。ということで運悪く医者にかかった場合、病床に寝かされてからは、嘔吐のほか、体内から水分を外に出すために、下痢や排尿を促進する方法がとられるだろう。

 また上記画像では黒胆汁の横に、冷(cold)と乾(dry)とある。ガレノスによれば、黒胆汁が多いときはこの気体の性質が強くなっているため、反対に温かい物を取れば四液体のバランスが取れて健康な状態に向かうらしい。ということで、温かな食事や運動、入力などをさせられるかもしれない。

 

 これでもよくならないと判断された場合、瀉血(しゃけつ)という治療がされるかもしれない。陽は血を斬ったり吸ったりして外に出すというアレだ。当然現代知識に照らし合わせると危険な方法だが、古代~中世の西洋知識に従う王道な治療なので致し方ない。あとは神に祈るのみだ。

 

文化ごとの治療

 

 古代ギリシャに生まれたのなら、医神のいる神殿へ運ばれるだろう。アスクレピオスの医療神殿が多いかな。

ACオデッセイよりアスクレピオス神殿。右側の人体パーツは治癒した人々の捧げもの

 

 中世キリスト社会に生まれたなら、人が病気となるのはアダムとイブ(罪を犯して完全な存在ではなくなった)によるとされる。そして、旧約聖書ヨブ記を示しながら、サタンによって皮膚病に罹りながら神への信仰を捨てなかったヨブを見習えと言われるかもしれない。

 

 現代日本の場合、偏った情報をSNSやニュースから拾ってしまい、恐ろしい推察や陰謀論に巻き込まれてしまう。またこういった放射能や井戸毒、漠然と理解しにくいが不安を煽りやすい存在は、化学にしろ魔術にしろ人類の研究が進んでないものにしろ、政治運動や外交活動の扇動材料としてよく利用される。

 

結局助かるためには

 遅延性の毒液を飲んでしまったと気付いたら、まずは飲んだ量とその物質が何なのかを記憶しておこう。そのまま専門家のもとへ行き、専門知識による検査と診断を得ることが必要だ。たとえ相手に未来の知識がなくとも、第三者による客観的な評価は大事である。

 しかし、もし古代でトリチウムを摂取した場合、素直に「トリチウムという物質を摂取しました」というと混乱を生む。まず放射線と言う概念を説明するのも大変だ。そもそも放射線について語るなら、相応の知識を自分が知らなくては説明できない。

 

タイムスリップしていない今なら間に合うので、正しい知識をネットの有識者でも一般病院のブログでもなく、国や大手医療機関からの情報を、一つだけでなく複数確認することで、知識を覚えていこうね。という安易なまとめで締めくくることにする。

 

古代メキシコ展でみた歯の装飾学

 

世界史マニアを散々興奮させた古代メキシコ展の、東京展が終わった。

前々から訪れてはいたけど、正直他の方のブログのほうが博識だったり写真良くて、私みたいな

「トウモロコシ! 南米からスペイン人が持ち帰ってポルトガルに渡り、安土桃山時代の日本に「唐(中国)のもろこし」と名前つけられた、大平洋を挟んで世界の反対側から伝わってきた作物!!の原型彫刻ある!」

「ライトで映し出される絵文字、永遠に眺めてられるなぁ……わざわざ難しい書き方をして神聖さを出すの、一、二、三を壱、弐、参と書く感覚が少し近いんだろうなぁ。中学の頃の私みたいだ」

とか、斜めから褒めることしかできない人間には現地リポートなど向かないのである。とはいえ、一番最初に展示されていたドクロについて、少しは語れそうなのでここに呟いてみる。

 

 

今回メキシコ展を通して、本物のドクロが一つ、そしてドクロの作品がいくつか展示されていることからも、アステカ文明におけるドクロの重要さが察せられることだろう。そして歯に対するこだわりも見られる。

 

アステカ、およびマヤ文明が歯の装飾にこだわっていたことは、英語で「maya teeth」とでもググってくれれば分かる。写真載せたいけど、一応遺骨なのと、引用先ちゃんと調べずに画像引用するのはしたくないので、申し訳ないけど調べてね。小さい宝石を歯に埋め込んだり、あえて健康な歯をいている写真が出てくるはず。

 

今回の展覧会にあったドクロでもそれが見られた。宝石はないんだけど、人為的に削られて三又になった前歯。かなり真っ平な臼歯も手を加えていたのかもしれない。

 

そんな歯にこだわった文明ながら、展示品には解剖学的におかしなものが多い。例えばここらへん。(画像は特別展「古代メキシコ」 公式サイト (exhibit.jp)より)

 

 

何が変かと言うと、正中に一本歯が生えていることだ。

歯は普通一対ずつ、鏡を見れば前歯は顔の正中線から左右対称に生えている。それをあえて真ん中に一本置くのは、口をちゃんと見た事がないからではなく、人心供儀に関わる以上、頭の解剖をしっかり理解したうえで、あえてやっていると考えるのが普通だろう。

他にも神の横顔などで歯を描くとき、必ず前歯三本を描くという様式があるような気がする。写真はないけどテスカトリポカも横顔の歯は三本だった。(画像:メキシコ展公式サイト、SNSより)

画像

 

こういった歯の文化は、何もアステカ固有ではなく、実は全世界的にあったりする。日本でも縄文人は歯を儀式的に抜いたり削ったとされていて、抜き方の様式も規則性があった。

西日本の晩期縄紋人の抜歯

成人式と抜歯(No.64)/藤井寺市 (fujiidera.lg.jp)より

 

こういった歯一つだけでも語り明かせて考察できるのだから、他の部位に目を向ければ勿論もっと盛り上がる。展示が太古に存在した文化へ我々の想像をいざなう。歯に興味がなくたっていい。酒でも料理でも神殿でも、終わってから調べなおしたいと思うことが多くの人に湧いたはずだ。もっと知りたいことの増えるという意味では、好奇心を掻き立てるとても良い展覧会だった。