今日から繋げる古代風景

日々の出来事を無理やり歴史に紐付ける人

ステータス画面が存在する異世界~ピタゴラスから相対主義~(思案中)

(注:この記事は資料収集中なので、あとで文献の引用や、大幅な改変があるかもしれません。)

 

彼らは、数学の原理が万物の原理だと考えた

アリストテレス形而上学、1-5,c. BC350~

 

 

サブカルにおけるステータスの現在

ゲームの途中、StartボタンやXキーを打つと開かれるメニュー画面。そこには自分のキャラのHP、戦闘力、装備からスキルまで確認できるステータス画面がある。

一方でRPGPvPだと、相手のプロフィールも一部閲覧できる。そこで戦力差を見極めて戦うか逃げるかを選んだり、パーティーを組んだり、botやチートの見極めも行う。

 

異世界モノ(なろう含む)では、そういうステータス画面がデフォルトに存在している。自分や相手の現在の状態を分かりやすく示してくれる便利な存在だし、極論「レベル100」と表示すれば、強者だと読者に納得させられる。数値化とはそれだけ強い。SNSのフォロワー数だって、言ってみればレベリングと似たようなものなので、もしレベルなんて概念が現実にあればあんな感じなんだろう。

 

さて、古代では強者の能力を紹介するのにステータス画面なんてものはなかった。だから形容語句で「兜輝く」ヘクトールと呼んだり、その直後に彼の武勇の逸話を並べたりする。百人力のヘクトールならまだしも、レベル100のヘクトールと呼ぶとゲームっぽくなるのは、戦力の数値化が近代科学以降の、そしてゲームから来る発想であるからに他ならない。

 

でも古代には、全てのものを数値化しようとする集団がいた。みんな大好きピタゴラス教団である。もし彼らがレベリング(レベルを上げる)の発想を閃いた場合、その熱意をもってステータス画面を魔法で生み出した世界があったかもしれない。

 

ピタゴラス教団がレベルという概念を生み出しそうな理由

ピタゴラスは尾ひれのついた伝説が増えすぎたせいで実態把握が不明な学者だ。彼の作り上げたピタゴラス教団が秘密主義だったせいで神秘的なイメージが広がったのもある。教団は政治結社でもあり、BC450年に壊滅したとされる。

 

ともあれ、現代でも「万物の根源は数である」(日本語表記ゆれ多々)と紹介される彼らこそ、古代でレベルという発想にいち早く気づきそうなものだ。

これが他の宗教だと「徳」を積むことでより良い人間になれるという点でレベルを閃くかもしれないが、そもそも徳が数値化に不向きなうえ、神を信仰した場合、「神の理解は数字で推し量れない」と拒絶され、ルネサンスにアラビアから数学が持ち込まれるまで無視されてしまいそう。

古代でレベルが流行るには、この宗教的な拒絶が入る前にステータス画面が存在しなくてはならず、それを生み出せるのはこの時代だとピタゴラス教団が筆頭なのではないか。

 

蛇足だけど、アポロドーロスの詩いはく、「ピタゴラスはある定理を発見したとき、立派な牡牛を神にささげた」(wiki)らしい。これがピタゴラスのレベル発見と強引に結び付けられる。牛を倒すことでレベリングしたと結びつけるのも創作では良さそう。

 

とかどうでも良い憶測はさておき、本題に入ろう。

古代世界に広めた場合、何が起こるかを想像しようと思う。

 

前提条件

・今回は戦闘力のレベルという概念に焦点を絞る。剣術レベル、魔法レベルなどの職業レベル、またこのレベルは「敵を倒すことによる経験値で上がる数値」と定義する。

・獲得する経験値量は、敵のレベルによって変動する。レベルが高いほど、経験値量も増える。

・称号などは考えない。例えば敵兵100人を斬ってレベルを上げたと偽り、実際は奴隷100人を殺したなどの場合、「奴隷100人斬り」などという称号を得るかもしれないため、ステータス画面で不利になるかもしれないが、そういうこと考えるときりがない。

 

1 数字の誇張

ギリシア文学を知っている方は、そこにかかれた戦争での兵士や船の数が大分盛られていることを知っているだろう。中国史の1万、10万単位で盛る兵士数もボリューミーだ。昔の段階で、数字は大きいほど良いし、盛りすぎなくらい盛る考えはあった。

そして当然レベルは、伝聞的な情報として、このレベルを偽ることが戦争での情報戦の一つとなる。敵軍のほうが平均して10レベル高いなどという情報は、ゲーマーならば撤退すべきと判断を下すだろう。逆に10レベル低いと言われれば、油断を誘うのも簡単だ。対面すれば実際のレベルが分かるものの、こうした情報戦に使われるのはたやすい。

 

2 王、貴族、儀式

 

おそらく王や貴族などは自らの名誉のために、さながら師に高名な学者や戦士を雇っては皆伝を授かるように、レベルを上げようとするはずだ。そこで先人に立って戦う軍人気質の者ならば、それを十二分に誇り、わざわざ兵士や民衆の前に現れてステータスを確認させることで人気を得るだろう。

一方で、あまり先陣に立たないタイプの貴族たちは、他で経験を積もうとする。そのため捕虜などを倒すことでレベルを上げたりするかもしれない。ともかくここで、人間が労働力や人質以外に、「経験値」という価値に生まれ変わる。よって、死を前にした病人や老人、貧者たちが身を差し出す代わりに家族へ報酬を得るという終末期ビジネスも発展するかもしれない。

 

これが宗教を通じて昇華された場合、自ら進んで誰かに経験値を差し出すことは神聖な儀式と扱われることになる。それまで神に生贄を捧げる儀式は多くあったが、恐らくその生贄のとどめを刺すのは神官の役目でなく、(経験値を実際に受け継ぐために)王や貴族の役目となるだろう。

原始的な宗教に回帰しようとする宗教家は、「経験値とは神の元に帰るべきである」という主張により、経験値を放棄する方法を模索しそうだ。よって極端に自害やうまく経験値を継承しない儀式を考え出して実行するだろうが、都市国家からすれば異端扱いされるだろう。

 

3 民衆

現代であれば、民衆はレベリングに関与しない。経験値を得るために、誰かを倒すことをしないからだ。むしろレベルが上がっているということは、何かを殺めたということで敵視されるか、一部の格闘家のみが自己アピールに使うのみだろう。

 

では例外はどうだろうか。

生物を殺すという意味では、ハンターや酪農家、実験で生物を取り扱う研究者などがレベルを上げやすそうだ。よって彼らの職業界隈ではレベルを比較し上下関係を図る文化が根ざすかもしれない。

 

また、治安の悪いところでは、レベルは分かりやすい強さの象徴となる。よって殺人などへの躊躇がなくなる、または正当化される文化の発展が見込まれる。

また戦時においてレベルが重要な地位を保つのは、想像に難くない。(こちらは深く考えるとキリがないし、なんならそういうゲームもあるので深堀りしない)

 

庶民による経験値の稼ぎ方

とはいえ、人はステータス画面で一生を終えるまでにレベル1から脱却したいと思うはずだ。また、成人と子供を区別するための指標などに使われるかもしれない。日本において、16歳が元服のステータスとなるように。

これがファンタジー世界なら村の外にいるスライムを狩るだろう。では現実だと、小動物を狩る方向に進む。そこで何体狩ればレベルが上がるのかの平均値が出され、一定レベルにあがるよう、仕組みが整えられる可能性がある。

 

4 学問への影響

まず、数字と言う概念がこのレベルによって幅広く知られることとなる。もしこの文字の言語が全世界で同一であれば、現在の英語並みに世界へ古代〇〇語が普及するだろう。これによる言語への影響も無視できない。

これにより、影響を受けるのは数学のほか、哲学や宗教で「なぜ人はレベルを上げるのか」「レベルとは何なのか」を議論する機会が増えるはずだ。道徳的にはレベルを誇ることなかれ、が一般的な解答となるかもしれない。しかし軍の階級や貴族の役職が名前だけであっても存在し続けたように、レベルもまた理由をつけて存在し続ける。その度に人々はレベルについて議論し続けることだろう。

またレベルの上がる職業が人気を博し、反対にレベルに無関係な職業が卑下される傾向も無視できない。これにより社会的なヒエラルキーが生まれ、社会や政治学の題材となるだろう。

 

アリストテレスの批判

アリストテレスは「形而上学」において、ピタゴラス教団を紹介しながら、その問題点についても書いている。 書くと長くなるので以下のNoteなどを参考として欲しいが、後の中世まで主流となるアリストテレスの考えだが、ステータス画面がある世界では数字主義の方が台頭する逆転が起きる。よって古代ギリシアから続く学問に大きな影響を与えていくだろう。

 

【哲学】ピュタゴラス派とプラトン ―アリストテレス史観を相対化する―|存在]

 

結局レベルとは何なのか

色々と考えたが、戦闘力のレベルは確かに、ある場所においては力を象徴となるものの、現代では平時において意味をなさない。戦闘力なんかよりSNSフォロワー数のほうが偉大だ。

しかし戦時では、大きな意味を持つ。つまり小国同士の戦争が続く時代、そして世界大戦などでは、権力や勝利のために利用される。個人単位でみても、兵士の人間観すら変える可能性を持つ。今回は古代視点だが、例えば近現代の場合、爆撃機によりレベルが急激に上がる兵士は、心が壊れるかもしれないし、逆に人気の職となるかもしれない。

 

また、レベルという数値化は、先にのべたように近代の科学主義など、すべてを数値化しようという働きがなくては生まれず、古代においてはその概念を先取りすることにより社会や文化に大きく関わるということが考えられる。

つまり中世風RPGではレベルが日常生活に浸透しているものの、基盤である中世の世界観自体がレベル表示ありでは存在しないという矛盾もあるため、細部を突き詰めると文化の破綻や矛盾が生じる。あるいはそのズレを修正するような文化や知恵が存在することとなる。

 

ともあれ、「レベルが高いからと言ってその人の言うことが正しいとは限らない」という注意はされそうだし、レベルが高くても評価されないことなど多いだろう。ただ一つの指標のみで人間性を図れるかについて、ソクラテスを始めとする古代ギリシアソフィストたちは模索した。これを絶対的な尺度を求める、絶対主義という。しかし彼は同時に、無知の知、つまり問い続け何も知らないことを自覚する、思考を取る。

 

汝自らを知れ

~デルフォイアポロン神殿の碑文~

 

という名言はソクラテスによると紹介されることもあるが、ステータス画面の表示についてもその正しさを問いかけ、そこには載らない情報までも考えなくてはならないと古代ギリシアの哲学者は考えるだろう。

そして同時代、最初に「ソフィスト」を名乗ったプロタゴスは、唯一の原理を否定した。

 

万物の尺度は人間である

 

彼の著作による言葉は、人間一人一人によって尺度は異なることを表している。そして後世では、相対主義として取られている。たとえ今日突然ステータス画面とレベルが見えた場合、まず第一歩としてそれが自分とどう関わるのか、例え古代世界でなくとも考えなくてはならない。