今日から繋げる古代風景

日々の出来事を無理やり歴史に紐付ける人

正月随筆を時代別に並べてみる【幕末~昭和9まで】

 

あけましておめでとうございます。

 

歴史ジャンルにブログを置いてる私は、折角なので正月に関する文学やエッセイを青空文庫で眺める。

祝うものが正月だと思えば、近代作家のほうが戦時やら社会変化に巻き込まれていて、記述もそんなこと無かったり、逆に人生経験を積んだ上で幸せを願ってたりする。

 

なんとなく時代順で、当時の正月を記した部分を並べてみた。

婦人画報の写真をみながら追ってみると、さらに楽しいかもしれない。

100年雑誌が紹介した100年前のお正月風景 (fujingaho.jp)

 

 

 

幕末〜明治

勝海舟の逸話と、海舟日記沙より。

まだ旗本という制度に武家ながら貧乏という幕末らしい世情から生まれた悲しいエピソード。

 

貧乏な暮らし

江戸本所(墨田区両国)で旗本の子として生まれます。父は旗本でも役職がなかったので、貧乏な生活を送ります。少年時代には剣術に打ち込み、寝る間も惜しんで稽古をしました。
結婚してからも貧乏な生活が続きます。
正月に親戚にもらった餅を持って帰る途中、両国橋で風呂敷が破れてしまいます。暗い夜道を、餅を探すものの、大人になっても自立できていない惨めさを感じて、結局、拾った餅を川に投げ込んでしまいます。

勝 海舟(かつ かいしゅう) | 人物編 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典勝 海舟(かつ かいしゅう) | 人物編 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典

 

文久3年(1863)

海舟の日記。明治3年くらいまでの日記では、正月を祝った記録より幕末から明治で次々起こる事件や志士との交流の記載が多い。

 

正月元日 竜馬  昶次郎(近藤長次郎) 十太郎(千葉十太郎) ほか一人を大阪す至らしめ京都に帰す。

濱口義兵衛(濱口梧稜)方江文通す。

(海舟日記沙より訳)

 

1カ月前の12/9に坂本龍馬勝海舟に初めて謁見し門下となっている。近藤長次郎(1838~1866)も海舟の門下となり、亀山社中に加わることとなる。後に社中の盟約所に違反した責任を取り切腹

近藤長次郎 - Wikipedia

 

千葉十太郎(1824~1885)は竜馬が通っていた北辰一刀流千葉道場の長男。前年は勝海舟を暗殺しようと、二人と共に訪れていた。鳥取藩に仕え、後に勤王志士を道場に匿ったり、戊辰戦争では兵士の指導を行い、維新後は管吏となる。

千葉重太郎 - Wikipedia

 

濱口儀兵衛は多分、紀伊の醤油商人(現在のヤマサ醤油)にして実業家や政治家となる濱口梧陵(1820~1885)のことかな。

フィクションとしては、安静難解地震では己の田の藁に火を点けることで村人へ迅速に津波から避難させた「稲むらの火」の逸話が小泉八雲により小説化されたり、地元の祭りに残っている。

濱口梧陵 - Wikipedia

 

明治28年(1895)

岡本綺堂(代表作『半七捕物帳』など)による日清戦争時の正月話。戦時に適応した正月の様子が記されている。

 

明治二十八年の正月、その前年の七月から日清戦争が開かれている。
すなわち軍国の新年である。

海陸ともに連戦連捷、旧冬の十二月九日には上野公園で東京祝捷会が盛大に挙行され、もう戦争の山も見えたというので、戦時とはいいながら歳末の東京市中は例年以上の賑わしさで、歳の市の売物も「負けた、負けた」といっては買手がないので、いずれも「勝った、買った」と呶鳴どなる勢いで、その勝った勝ったの戦捷気分が新年に持越して、それに屠蘇気分が加わったのであるから、去年の下半季の不景気に引きかえて、こんなに景気のよい新年は未曾有であるといわれた。

岡本綺堂 正月の思い出

 

明治30年明治43年(1897, 1910)

寺田寅彦(1878~1935)は物理学者にして随筆家、詩人。

東京生まれだが高知の士族の長男という明治らしい出自。

後に出てくる夏目漱石の作品のモデルともいわれる。

 

日本の正月という伝統っぽさと明治ではまだ真新しかった汽車やヨーロッパ旅行の組み合わせが面白い。

 

九州の武雄温泉たけおおんせんで迎えた明治三十年の正月と南欧ナポリで遭った明治四十三年の正月とこの二つの旅中の正月の記憶がどういう訳か私の頭の中で不思議な聯想の糸につながれて仕舞い込まれている。

 

 (明治30年)翌朝は宿で元日の雑煮ぞうにをこしらえるのに手まがとれた。汽車の時間が迫ったので、みんな店先で草鞋わらじをはいたところへやっと出来て来たので、上り口に腰かけたまま慌ただしい新春を迎えたのであったが、これも考えてみるとやはり官能的の出来事であった。やっと間に合った汽車の機関車に七五三しめかざりのしてあったのが当時の自分には珍しかった。

 

 (明治43年)明くれば元旦である。ヴェスヴィオ行きの準備をして玄関へ出ると、昨日のポルチエーが側へ来て人の顔を見つめて顔をゆがめてそうして肩をすぼめて両手のてのひらくるりと前に向けてお定まりの身振りをした。

寺田寅彦 二つの正月

 

明治43年漱石

朝日新聞時代の夏目漱石43歳。

この年の6月に胃潰瘍で危篤となり、5年後に亡くなるまで入退院を繰り返す。

ここでは、新聞会社で正月記事を書かなきゃいけない愚痴を書いている。


 元日を御目出いものと極めたのは、一体何処の誰か知らないが、世間が夫れに雷同しているうちは新聞社が困る丈だけである。

雑録でも短篇でも小説でも乃至ないしは俳句漢詩和歌でも、苟くも元日の紙上にあらわれる以上は、いくら元日らしい顔をしたって、元日の作でないに極っている。

尤も師走に想像を逞くしてはならぬと申し渡された次第でないから、節季に正月らしい振をして何か書いて置けば、年内に餅を搗いといて、一夜明けるや否や雑煮として頬張る位のものには違ないが、御目出たい実景の乏しい今日、御目出たい想像などは容易に新聞社の頭に宿るものではない。

それを無理に御目出たがろうとすると、所謂太倉の粟ぞく陳々相依という頗る目出度くない現象に腐化して仕舞しまう。

夏目漱石 元日

 

昭和2年(1927)

漱石の弟子、芥川竜之介の死後発表された澄江堂句集に収録。

哀愁あふれる。他にも仲間へのハガキで正月を読んだ歌がいくつかあるらしい。

 

元日や 手を洗ひをる 夕ごころ

 

 

昭和9年(1934)

太宰治25歳の「葉」。中原中也と同人誌を作るも揉めたりした時期。翌年、首吊り自殺未遂や、留年していた大学の除籍する。

下は檀一雄の同人誌によせた、冒頭文ながら分かりやすく不安定にさせられる太宰作品。

 

死のうと思っていた。

ことしの正月、よそから着物を一反もらった。

お年玉としてである。

着物の布地は麻であった。

鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。

れは夏に着る着物であろう。

夏まで生きていようと思った。

太宰治 葉

 

 

感想

 

探せばもっとあるだろうし雑誌の特集組めちゃうほどの文量になるだろうけど、真面目にやると正月休みがすべて潰れるのでここまで。

作家の個性もそうだけど、時世を読み取るのも楽しかった。

同じ年が一度もないように、同じお正月は一度もない。

 

今私が随筆を書けば、スーパーとネットの福袋にゲームの正月イベントの話になってしまい、重厚感は全くなくなりそうだけど、百年寝かせればアンティークものになるだろうか。

 

他の作家で面白い元旦の随筆や日記があれば、教えてください。

 

終わり