長命種と読者
人間100年時と言われてから久しい現代日本。
昭和の老けたアニメキャラが実は今の自分より年下だったことに驚いたり、老後にも労働しなくてはいけない不安に駆られたりするこのご時世だが、人間の時間間隔はフィクションを通じて大きく狂わされるし、順応してしまうことも分かっている。
人間はいかにして、自分の寿命を超えた長い時間の物語すら、自分のものとするのだろうか。そんな話を、最近人気な2つの作品から考察してみる。
ファミレスと葬送
『ファミレスを享受せよ』は2022年に月間湿地帯/おいし水により公開されたアドベンチャーゲームだ。
ファミレスを享受せよ by oissisui (itch.io)
そして2023年8月にはstem版、11月にはswitch版も発売され、間違いなく人気のゲームである。
説明文に
>永遠のファミレス『ムーンパレス』に迷い込むアドベンチャーゲームです
とあるように、この作品のテーマには「永遠」が存在する。プレイヤーは外へ出れないファミレスの中を歩き回りながら、同じく長い間ファミレスの住人となった人物たちと会話し、時間を潰し、長い時間をかけてこのファミレスに馴染んだり新たな発見をしたりして過ごしていく。
このゲームが面白いのは、実際にプレイヤーに、長く退屈になりそうでギリギリ退屈ではない時間を過ごさせることだ。ここに登場する人物たちは、大げさな行動や際立った個性をこれでもかと発揮するような人はいない。長い時間の中で、穏やかに過ごす事を受け入れた人々だ。故に誰もが静かに語り合い、プレイヤーも自信もゆるやかな世界に順応していく。
とはいえ、よく考えるとこのゲームをプレイしたところで、一時間は一時間だ。推定プレイ時間30分とあるように、エンディングまでは決して長い時間はかからない。むしろ激しいアクションのあるゲームのほうが、チュートリアルだけで一時間以上あっという間に立っていることもある。だが、このゲームに10分でも使ったプレイヤーは、確かに長い時間を過ごしてきた共感を覚えるのだ。
ここで長い時間を感じさせるのは、単純な風景と穏やかな世界によるものだろう。
不老不死の冒険譚であれば、『不滅のあなたへ』(2016〜)などの前例もある。だが、ここではアクション性を取りさり、淡々と流れる時間と、何かが起きても大きく心象を乱されない、長い時間においては全てが些細なことにみえる世界観が続いていく。
未知の世界に迷い込んだはずでありながら、プレイヤ—と主人公は脱出しなければならないと焦る気持ちを持続させない。三色だけのシンプルなイラストに静かなBGM。人物たちの卓越したかのような台詞への共感。ここに悠久の時を過ごした感覚を覚えさせる何かがあると踏んでみる。
さて、先にもう一作品について、軽く紹介しよう。
『葬送のフリーレン』は2020年からサンデーにて連載を始めた漫画、および2023年9月から放送したアニメだ。
長寿のエルフであるフリーレンが過去の勇者パーティーを想いながら新たな仲間と共に旅する人気作は、SNSでも見れば考察が溢れかえっているので深くは触れない。
ここで提示したいのは、この漫画の特徴であるフリーレンの時間間隔だ。他の人物が生きる時間の感覚と、長寿により大幅に異なる時間間隔は、数十年ぶりの仲間に数日離れていたくらいの感覚で挨拶している様子や、遥か昔のことを昨日のことのように語る様子がこの漫画のクセとなる部分である。
もし『ファミレスを享受せよ』をプレイしたのなら、フリーレンの様子に近しいものを感じるはずだ。つまり時間にルーズとなり、どこか達観する感覚だ。とりあえず目の前に暇つぶしがあるからそれに向き合うだけで、それ以外は特にすることがないという感覚である。
そう、『ファミレスを享受せよ』は探索ゲームではあるが、基本的に多くをすることがない。プレイヤーができることは、狭い店内を歩き回ること、話題をみつけて他の人物と雑談すること、ドリンクバーを飲むこと。この3つだけ。冒険もしないし、頭を使う謎解き要素もそんなにない。ただぶらぶらとファミレス内を徘徊して、新たな雑談の種が手に入っては、誰かに話しかけ、そしてまたぶらぶらと徘徊しては、何か面白いものがないかを探させられる。
フリーレンも、時間がないという感覚が少ないため、基本的にゆったりと受動的に行動する。旅をするという自発的な理由が芯にはあるものの、表面は「なぜ人間はそういうことをするのか」という疑問を持ちながら、とりあえず人間を真似たり、仲間の言うことに従っている。このゆるやかな積極性こそ、私たち読者に長い時間を生きた感覚を与える部分なのではないか。
2023他作品での超長時間の扱い
他の作品も例に出していこう。
長寿で生きると言えば、手塚治虫の『火の鳥』。丁度今、『火の鳥 エデンの宙』が劇場で公開中だ。ここに出てくる火の鳥は、他の生命と自らをハッキリと分けて考えており、独自の考えで行動していく。こういった、長く生きたことで別の視点へとたどり着くキャラ造形は多いが、その場合読者に共感は生まない。別種の存在や、人間の善悪を超えた別次元の存在という扱われ方をする。ただし主人公たちの邪魔をするなら、それは凝り固まった自分だけの固定概念を持つ悪としても描かれる。
一方で、数千年間、ある一念のために行動する誠実さを表す場合もある。
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)は今月公開の映画だが、このバージョン(6期)の鬼太郎はなぜ人間を守るのかと問われて「育ての親」を例に出す。人より長く生き達観した存在ではあるが、一方でその奥深くに刻まれた信念は、一年であっても思いを貫き通すことが難しい人間に対して、フィクションであっても感動を生む。
1000年以上経ても一貫した思いなのは、同じく2023年にアニメ最終回を放送した『進撃の巨人』もそうだろう。ネタバレというか内容を説明するのは長くなるので割愛するが、あれもまた異常な意志に対して読者がギリギリ共感できる人間的な原動力を持つことで共感を得ていた。
しかしこれらは、キャラと視聴者の絶対的な距離の隔たりがある。理解はすれど、我々とは異なる存在だと理解される。どちらといえば神話の神々に近い超自然的な方向性だ。
一方フリーレンでは彼女が人間性を学んでいき、その姿を主人公として追い続けることでその隔たりが緩和される。ファミレスでは超長時間を過ごす主人公とプレイヤーとの境界線が溶けてなくなっていく。
長寿いう異常性でなく、その日常を我々に追体験させるという特徴こそ、この2作品の独自性が生まれているのではないか。
客観的な視点での長寿
上記以外でプレイヤーに長い時間を過ごす体感させるものだと、ゲーム内で年単位の街作りや戦争をするゲームや交配などをさせる育成ゲームがある。桃鉄なんかは99年プレイができるけど、あれもまた擬似的な長寿視点であろう。
ただしこれは少数ゲームに限った話ではない。現実の時間より大抵フィクションの中の時間は早く進む。
ここにはフリーレンほどには長寿性を意識な視点はない。一方、一回の行動が1ヶ月かかるといった悠長さ、戦略を練るときは数年〜数十年先(現実のプレイヤーとしては数十分〜数時間)の展開を考える思考は、長寿という視点でもある。
ただし前述の通り、そこに長寿的という自覚は薄い。街づくりをする以上、必要だから長寿という設定がありそれを受け入れてるに過ぎないからだ。故に長寿によるデメリットや悩みを覚えることもない。
例外として、『俺の屍を超えていけ』など、短命なゲームキャラをいかに活用するかがプレイヤーに問われるゲームでは、相対的に長寿性による苦悩がみれる。短命性が特徴の作品だからこそ、長寿性と関連するわけだ。
終わり
フィクションのお陰で人間は100年、1000年、数万年を生きる感覚を楽しめる。だがその第一歩は「でも、それだけ長く生きてたら退屈でしょ?」から始まると思う。勿論長寿だからできる冒険活劇やゲームもあるが、この疑問に正面から答えるのがフリーレンやファミレスと言った存在なんじゃないかと、ダラダラ文章を書いて思った。