今日から繋げる古代風景

日々の出来事を無理やり歴史に紐付ける人

AZNANAをコンテクストに沿ってプレイした感想、考察

 

 

 

カラメルカラムのスマホゲーム「AZNANA」をプレイした。

 

公式サイト

caracolu.com

 

異形頭が暮らす、壁に覆われた街が舞台。

しゃべることのできない少年は、ゴミ山でおしゃべりな生首アズナナと出会う。

少年には自分の居場所がんかう、アズナナには自分の身体と記憶がなかった。

少年はアズナナと一緒にお金を稼ぎ、この街を出ることを目指すーー。

(公式サイトより引用)

 

 

 毎度シナリオに定評のあるこのゲーム会社は、今作も小説の世界をさまようような、不思議な世界と、個性のあるキャラ、その背景で丁寧に練られた設定や伏線の上で織り成す切なさと優しさの詰まった物語は、涙腺を刺激してくれた。

 

 放置ゲーの一種ではあるから、クリアまでゆっくり時間をかけてちょこちょこプレイしたのも、長い間この街に住んだような感覚となって、涙腺を破壊してくれる要因ともなった。こんなゲームに金を払わないのも失礼だと、一杯お布施も投げました。

 

 さて、このゲームは一冊の絵本のようにエンディングまでしっかり作られたゲームなので、小説作品のように色んな考察がしやすい。

 

 折角なので、この作品の背景を一つずつ、ロシアフォルマリズムっぽく紐解いていきたい。つまりゲーム内の物事を

 

「このシステムは、ゲームに落とす都合中仕方なくこうなった」

「この演出はメタ的にこうだよね」

 

とかではなく、

 

「作中においてそれらがどう演出されているかを見て、あくまで作中内の設定のみを根拠に意味を考えよう」

 

というやり方だ。

 

 なおまずは、プレイ途中で知りえた情報を元に書いていく。

(最後までプレイすると、全然違うよとなる情報とかもあるかも)

 

 

 

ネタバレはなるべく避けるけど、無料なのでまだ未プレイの方は一旦DLするのを推奨する。気に入ったら300円くらいの広告削除を入れると下バナーや30秒広告と永遠におさらばできるので、世界観に没入できて感動が更に高まるよ。

 

マップから考えるかつての街構造

 

 

 

  この街はHPを見れば分かる通り、古めかしくゴミで溢れた場所だ。そこに異形頭(オブジェクトヘッド、O/H)と呼ばれる存在が店を営んでおり、少年たちは店で買い物をし、自転車で他の店でその商品を高値で売ることでお金を手にする。他にも空き缶拾いや空から降り注ぐゴミ集めまくることで稼いだりもできるけど、基本的に卸売り業的なことをしているのが正しい。

 

全貌

 街の形は円環、中央の発電所を囲むようにドーナツ状で描かれており、店は数件、ぐるっと一周するように描かれている。(画像は公式サイトより)

 見ての通り店から店へは自転車をこいでも最短で15分以上はかかる。どう考えても暮らすには不便なので、逆に昔は

 

・より多くの店がより近い間隔で存在していたので、離れていても気にならなかった。

 

・ゴミ山や整備されずに通行できない道がないため、もっと短時間で行き来できた。ドーナツ状のマップであり密集したビル群が中央に生えているので、例えば街づくりの基本として、中央から放射線状に道が存在するのではと考えられる。

 

・自転車でなく自動車や路面電車がメインだった。

 (今は荒れた道、利用者減少、少年が運転できないなどの理由で使われない)

 

 などの理由が考えられる。背景を見る限り工場も多いから、集団移動としてバスか電車は絶対に存在していたのではと考えた。それを利用せず延々と自転車をこぎ続けられる少年の脚が末恐ろしい。ちゃんと休んでね。

 

カフェ~本屋、音楽屋

 街の外への入り口付近には、まずカフェ(SALONO)が存在する。駅カフェのように、到着した人々はまずここで疲れを癒したり情報を集めたりしたのだろうか。

 次いで、中央には本屋(LIBRO)や音楽屋(MUZIKO)といった娯楽場所が立つ。この街には、O/Hから「1つの業種につき1つの店舗しかない」と説明される。この本屋と音楽屋というサブカルの発展場は、マップ的には街の中央ではなく端にあるので、人が使うには不便だ。ということは、

 

・街の中央には他の娯楽施設(劇場など)が存在したか

・街の労働者全員が務める単一の巨大工場があったか

・O/Hでなく人間の運営する店舗が街の中央にあったか。

 

 となる。一番最後の場合、人間とO/Hの間で格差が生まれている気もする。一方で、街の隅にあるO/Hの店ということで、街の発展や衰退に巻き込まれることなく運営できるというメリットもありはしそうだ。

 

自転車屋

 更に奥へ進むと、あるのが自転車屋。普通乗り物屋は街の入り口でレンタルサイクリングなどを行っているけど、あえて最奥にある理由は何なのだろうか。横にはゴミ捨て場、街を見て回る旅行者のことを考えると、サイクリングの開始地点としてはよろしくない。となると、

 

・この街は観光業に力を入れていない

・自動車社会のため自転車は不要

 

あるいは視点を変えて

 

・元々東の方にも入口があった

 

といった推測が浮かび上がる。

 

ゴミ捨て場

 街の入り口から遠い場所にゴミ捨て場がある。ゴミは普通処理した後に埋め立て地などに持っていくものであり、周囲を壁で囲まれた町の中で留めてしまえば、街はいずれゴミで溢れかえることになる(実際、少年たちの走る街の風景はそうなっている)

 

 となれば、あえて街のシンボルとなる入口からは遠く置いたとしても、最奥にゴミを溜め続けるメリットはあるのだろうか。そこで先ほどあげた

 

・元々東の方にも入口があった

  

 という仮説を考える。

 街のゴミは東から運ばれていたが、ゴミの量が増えたために一時的に山として貯蓄するようになった。しかしその後、東側の門が閉鎖されたため、輸送そのまま放棄されたという考えも取れる。あるいは、

 

・東門がないせいで、街の東側で出たゴミの処理が解決しづらく、結果的に不法なゴミ捨て場となった

 

などとも考えられる。

 

オブジェクトヘッドたちと売買

 

 基本的に少年たちはO/Hたちと物を売買することで金を稼いでいく。彼らは無尽蔵にお金を所持しているらしく、花屋の娘O/Hという一見幼い少女ですら商品によっては高額を即決で出す。

 これはこの街の物価がジンバブエドルとはいわずともインフレして高くみえているとも考えられるが、逆にO/Hはこの店から移動しないために、出費が殆どないとも言える。

 

 人間であれば欲しい商品のために、自ら移動して見せに行き商品を買う。しかしO/Hは、移動をしないし、商品も、値段をつけるのは彼ら自身だが、少年の提示したものなら何であれ買い取る。つまり受動的な商売、受動的な消費が、O/Hの性質であると言える。

 彼らは積極的に儲ける必要がないから、街の隅で商売を行っているし、人を呼び込まないのだ。

 

 しかし、その中で変化を遂げるO/Hが現れる。

 

 

(ここから中盤ネタバレ)

 

O/Hたちと家族と成長

 

 彼らは、自分と家族に関する問題を胸にかかえながら日々を送っている。

 花屋は母親、本屋は父親、音楽屋は兄、何でも屋は兄弟のように過ごした元主。

 自転車屋と少年は父子、アズナナにも姉妹のような存在がいる。例外に見えるカフェ屋も、終盤にてある対象たちに対しての想いを語る。

 それらに焦点を当てて変化の過程を読み解いていきたい。

 花屋

 ゴミ山の横にたたずむ花屋という、美醜の並びたつ場所。この場所で花屋の娘は、母親を安心させたいと考える。そこでアズナナが言ったのが

 

 「店の売上を伸ばす」

 

 という方法だ。この提案は、人間であれば当たり前だが、受動的なO/Hにとっては想定外の判断であろう。と、同時に彼女はその提案を受け入れ、積極性を示すべく新商品を売り出す。

 最初に売られた「一輪のバラ」「小さなサボテン」は、手のかからず、飾るにも困らない商品だ。しかし追加されていく商品は「サクラの小枝」を経て、「花束モドキ」「フラワーボックス」とより鮮やか。かつ購入したO/Hが「飾るには工夫が必要」というように購入者側への工夫を強いるものとなる。大多数の客層にウケるシンプルさから、購入者を選ぶ品物を出すようになったのは、O/Hの中に積極性が芽吹き成長し始めた証拠でもあるだろう。

 

 花屋の娘の場合、新商品は全て店の中から出ない母に教わっていると娘は言う。その母がこの商品を順番に教えていると考えると、当たり障りのない商品しか教えずに可愛がっていたのは、言い換えるとクセのある商品を出して売れ残る辛さや購入者からの不満をあえて避けさせていたともとれる。

 しかし後期に「おまかせアレジメント」などの商品も教える事で、そこに店を仕切る販売者としての自覚や責任を持たせてくことにも繋がるのではないか。

 

 また、娘の言葉伝いに母親は娘が稼いだ売り上げを見て喜んでいたとある。それが喜んだふりである可能性もあるが、同時に売り上げを増すということは、娘が積極性を獲得したことの証でもあり、それを喜んだともいえるのではないか。

 

 O/Hは受動性を特徴とするが、母自身も娘の売り上げに関わらず技を伝授し、例え客が来なくともすべてを伝えきればそれでO/Hの店を引き継ぐという役割は終了である。

 

 しかし売上に応じて新商品を教えこむ母は、娘に積極性を望んでいたということであり、娘に従来の「花屋としてのO/H」以上の積極性を望んでいたとなる。

 

 最後に花屋が追加される商品は、(私の場合ある画家の一生を勝手に母親に重ねてしまうが)、購入者のコメントによりこれだけが異質であると分かる。ここでなぜこの商品だけかの理由を考えると、母親が従来花屋のO/Hとして伝授するようプログラムされていない、母親として娘に伝えたかったものなのかもしれない。店から動けない受動的な中に、どれだけ積極性を見出せるか、それが花屋だけでなく他の店のO/Hの命題ともなっていく。

 

音楽屋

 冷笑と苦悩、そして中二病を混ぜ込んだようなオルゴール頭の彼は、自ら音楽を生み出すことをひどく恐れている。過去に囚われた存在であろう。そんな彼が初期に売るのは「はじめてのクラシック」「やすっぽいバラード」とよくも悪くも定番な音楽屋の品ぞろえ。その次に無音の「273秒」を突っ込む奇抜さは、己のセンスに卑屈なれど突飛であることは間違いない。

 

 この音楽屋、自らの卑屈さゆえに最低限の音楽しか売らないという点では、受動的なO/Hである。

 

 彼の苦悩は、自らが音楽を作ることと、兄への劣等感および後悔である。兄の凄さを語りながら、終盤まで兄がなぜこの場にはいないのかを語らない。読み手は何となく、廃れた街なので兄もまた壊れてしまったのだとまずは推測する。だが終盤に語る兄の行方は、彼の劣等感の理由に強く関わっている。

 

 「273秒」は、元ネタの4分33秒と同じく、何も音がない中で流れる生活音や周囲の音を気づかせる曲である。退屈な日々の中で、彼の中に同じではない何かに気づきを与えられたことを暗示する。

 

 途中、彼は「サイレントナイト」「ハッピーバースデー2U」という季節に関わる祝いの曲を挟む。時間の流れを意識させる曲は、彼の中で止まっていたものを動き出していることを示しているようにみえる。

 

 次いで「地獄のヘヴィメタル」「クソッたれなオルタナは今までドクロなどを欲しがり、コーヒーを飲む兄に憧れるような、中二病を匂わせていた彼と同調し、彼を激しい想いが揺れ動く10代の思春期を足掻く青年へと変化させる。

 

 途中で割れた鏡を見ることで、己自身を見つめなおすのは、子供が自己のアイデンティーを得る心理発達をなぞっているのだろう。

 

 彼の中で、兄によって生み出された創作に対する劣等感は大きかった。だからこそ彼にとっての積極性とは、自分が新たな音楽を生み出しても良いという、挫折からの立ち直りだったのだ

 

 このように、O/Hたちのサブストーリーを通じて、受動性からの積極性への転換するシナリオは繰り返され、やがて少年たちにもその展開はぶつかることとなる。

 

カフェ屋

 カフェを運営するO/Hは老いた男性のような言動と、実際に身体が軋むという老いを感じさせる設定がなされている。

 ストーリーを進めると、少年たちに人間たちが来ていたころの話を懐かしそうに話し始める。更に終盤では、自身の夢を語り始める。

 

 彼には直接の家族関係となる存在が作中には登場しない

 

 それは詳細を省くが、街に残っているO/Hたちそのものを家族として捉えているからでもある。

 途中、彼は何でも屋が来たときに、新たな人間が共にいなかったかを尋ねる。彼にとって憂鬱の対象であったのは、店に誰も来ないという寂しさである。他のスタッフと共に長く働いてきたと語るのも、寂しさの強調だろう。

街ができた当初から入口の横に存在した彼は、街の栄枯盛衰を一番に理解している。そして店に新たな人間が来ないことも。

 

 序盤に彼から買える商品は「スタンダードコーヒー」「タマゴサンド」「ホイップラテ」「クロワッサン」。まるで本当に駅カフェ(スタバなど)のように、ライトな食事である。

 しかしここから、花屋の好む「チーズケーキ」、音楽屋のオーダーに応じた「プレミアムコーヒー」、本屋の好物である「カレーライス」と、丁度元々街にいる他3人の求める商品を出すようになる。

 

 彼はコーヒーの開発のために、少年たちに試作品を渡す。それは一見すると様々な層の評価を知ろうとしているようだが、一方で彼の飲んで欲しい相手は常に、少年たちが出会って来たO/Hの特徴と合致する。

 

 つまり彼が積極的に望んでいるのは、この街にいるO/Hたちに関わろうということである。

 

 話を聞くと、彼には本屋の前の主人や、音楽屋の兄と交流があった話をする。O/Hは基本的に店から動けないというルールが何度も提示されている以上、実際に足を運んだわけではないだろう。だが、言葉伝いに常連客が停止していく。残されたO/Hの事情を少年たちに何度も確認するも、店から動けない以上積極的には関われない。そして自分にも老いが近づき、できることは限られている。

 

少年とアズナナ

 受動性と積極性という点で話をみていくと、話せないが体のある少年と、よく話すが体のないアズナナは、その印象に対して逆の展開を向かえる。アズナナが記憶を一旦取り戻したが、その後ショートを起こして記憶喪失となるのである。

 

 ここでショックを受けるのはO/Hたちだけでなく読み手もだろう。少年は初めて、真っ直ぐ進んでいた道で挫折を覚える。

 

 同時に、ここでプレイヤーは街を出るか、残るかという2択を突き付けられる。ここで改めて、今自分がどちらに傾いているかを問いただされると同時に、積極性が良い方向に向くとは分からないということも示される。

 

 だがこれは唐突な2択はない。

 

 ストーリーを進めるごとに弱る花屋の母やカフェ屋、積極性を見せたことで後悔を生んだ音楽屋と、何度も反芻されたテーマである。

 

 だからこそ読み手はこのとき始めて、シナリオの分岐、つまりどちらかを選ばなくてはならないという積極性を見せなければならない。

 

 その結果がどうなるのかは、ここでは省略する。

 だが最終的に、どんな結末となろうとも受動的から積極的な行動をする決意を、O/Hたちが示している。

 

 

本屋

 この世界を、物語というメタ視点でみる、大人の女性らしきO/H。商品はなぞなぞ本の「リドル100」、ハチ公パロの「ロボ公物語」、童話の「人形じいさん」「アズの魔法使い」と、まずは子供向けの本から始まっていく。

 その後、名曲集「みんなのおんがく」、ディストピア本「すばらしいせかい」など子供が読むには内容が複雑な本を取り扱うようになっていく。

 

 ここに登場する老若男女のO/Hがそれぞれ人間の人生の一部を切り取っているとすれば、彼女は大人となり過去を客観視できるようになった存在でもある。

 かつて父親とのいさかいも、今では客観視できるほどに。

 

 彼女は他のO/Hと比べて成長を感じさせず、少年たちに対して母親のようなポジションで見守り、彼らの行く末を見守っている。そして少年はその影響を受けてか、自ら本を書くようになる。その本を自らの書店で売りたいと言う本屋は、やはり他者の成長を眺める側に回る存在であるのだろう。

 

なんでも屋

 彼女はアズナナに次ぐ第二の来訪者だ。フランクな口調で、ヘンテコな雑貨を売り、この街の住人でないがゆえに自由に動けるという特殊性を持つ。それは少年たちに新たな外の世界を見せる、年が近いお姉さんという印象を与える。

 それは単に雰囲気からではない。彼女がこの街に来た理由、それは理不尽な飼い主の元から逃げ出したという、少年と重なる過去。更に少年が自転車に乗るのに対し、彼女はバイクに乗る。本を書くようになる少年に対し、彼女もまた文字を書くことに慣れている。つまり、少年の一歩先を経験してきたような人生を送っているのだ。だからこそ少年は彼女に頼もしい雰囲気を感じるし、実際彼女が登場してからは、金銭やクエストのために積極的に何でも屋を訪れるようになる。

 「なんでも落とす洗剤」「焦げ付かない鍋」と、序盤に売るのは便利な家事関係のものだ。なんでも屋といいつつ、彼女が元々家事を得意とするO/Hだったのかもと推測がなされる。

 「投げたくなる小銭」「消しゴム人形」「金色の脳」といったジャンクでサブカルな感性を覚える商品は、まさに少年より少しだけ年上らしいお姉さんだ。続く残りの商品に関しても、少年より少し年上の精神という点で同じの音楽屋好みの商品が続いていく。音楽屋が創作意欲を刺激する外部から来た新たな感性に飢えているという点もあるのだろう。だがそれより、楽観的だが時折シリアスななんでも屋と、悲観的だが時折ユニークな感性を爆発させる音楽屋は、対称的であるからこそ通じ合うものがあるのかもしれない。

 

 そして街のO/Hではないけれど、彼女もまた、家族を抱えていた。しかしその家族は作中で会えなくなったことを示している。ここまで一歩先を生きてきた彼女の後悔を少年は知る。そして少年に街の外へ出る提案をするのもまた彼女だ。

 彼女がいる一歩先の人生、つまり未来の少年の辿る道を見せながら、最後は少年の選択を待つ。それは人生の先輩としての導きであり、同時に少年を過去の自分と重ねて、後悔を生んだ過去=現在まだ分岐点に立つ彼を救おうしているのかもしれない。

 

自転車屋

 分かりやすいテンプレな、少年を育てあげながら暴力的な父親ポジションとして登場する。悪そうな印象を与えながらも、しかし少年が常に乗っている自転車は彼が与えたものであり、ゲーム中に何十時間こぎ続けようと破損がないのは、自転車屋の整備が行き届いているからだろう。

 彼のみ序盤以降、金をもっと持ってこいという自転車から慌てて立ち去って後、店によることはない。父殺し(親殺し)の文学などというように、少年はここで彼とのかかわりを一切取らなくなる

 

 中盤、月日が経った後に、少年の姿をみたO/Hたちが「大人びた」という趣旨の話をする。読み手はもしかして彼は人間なのかという想像をするが、それをハッキリと知るのは彼を育て上げた自転車屋のみである。登場はしないし、誰も彼のことを触れないが、少年の自転車が常にその影響を示し続けている。

 

ゴミ山

 スカベンジで何度も訪れ、不思議なものをいっぱい発掘できる場所である。

何でも屋がこの街に来たのも、中盤でもしかすると耳のあるロボットを探しに来たからかと察したりもする。

 一番安いのが「きれいな歯車」、これだけ綺麗と書かれているのに一番安いのも面白い。他には、恐らく元ネタがあるんだろうなというゴミが沢山見つかる。

 この作品において、ゴミ山は本当のゴミではない。売れる商品の見つかる出会いの場、依頼を受けて発掘する可能性の場所である。なによりアズナナという生首から声援を送られる光景は、ゴミ山を前にシュールである。

 少年がゴミに慣れているのもあるが、現実では避けられるゴミ山を、このゲーム内でプレイヤ—は積極的に寄ることになるというアイロニーも含んでいる。

 彼らがゴミを汚らしいものと扱わないお陰で、ゴミ山が探索のワクワクを示す場となり、このゲームの雰囲気を明るいものへと変えている。それがこの作品の根っこに繋がるのだろう。

 

広告を文脈に含めると

 序盤、私は広告をつけながらゲームをプレイしていた。このゲームではおもに

 

・フィーバータイムの効果3倍

・移動時間の短縮

・再度のスカベンジ

 

 で30秒広告を見るか選ばされる。逆に300円払えば見なくて済む。ゲームをクリアしようとするほど、広告を見る回数が増えるのは一見デメリットだが、この仕組み自体も文脈と捉えると面白いかもしれない。

 

 舞台は寂れゴミの溢れた街で、フィーバーでさえ手に入るのは最新の何かでなく捨てられたゴミである。それを換金しているという体で金へと変わるが、つまりこの場所は社会の最下層と言っても良い。しかし、そんな最下層のゴミ山にも広告は入り込む。そして広告は金を生む。広告映像を眺める間、読み手は30秒間、何もできぬために受動的となる。そしてプレイをするほどに、受動的な時間は増えていく。

 

 ここでは積極性、つまり金を払えばこの呪縛から解放されるという選択が提示されている。別に課金を誰も強制しないため、最後まで何もしない人も大勢いるだろう。前述で、読み手は街を出るか、残るかの分岐により積極性を強いられると話したが、ここでも実は選択肢が与えられている。金を効率的に稼ぐために現実の金を払うか、無課金の非効率さを抱えたまま、ゲーム内で金を稼ぐ効率を求めるというメタ的要素でも見れる。

 

終わりに

 ゲームのストーリーなんかは誰かが分かりやすくまとめてるかもしれないけど、この話にどう解釈するかは一人一人違うので、私のような解釈をしても良いし、そんなの妄想はデタラメだと言ってくれても良い。

 

 昨今の膨大なシナリオが追加され続けるアプリゲーをプレイする中で、日々プレイしながら、終わりへ向かっている怖さ、新しい場所へ進む勇気を実感させるこのゲームは、アプリゲームをプレイするということについて改めて考えさせられた。

 同会社のアプリゲーム「ALTER EGO」のシナリオクオリティと、少ない台詞ばかりなのに魅力的なキャラの多い「ムシカゴ オルタナティブマーチ」の両方の良さが十分に生きているので、この2作が好きならおススメである。逆もまたしかり。

 

 あとALTER EGOとの連動もあるんですね。こうやって新しいエスとの話が聴けるの嬉しいです。